書評

2021年1月号掲載

「切断」と「選択」がもたらすもの

―『オルタネート』刊行記念対談を終えて―

吉田大助

対象書籍名:『オルタネート』
対象著者:加藤シゲアキ
対象書籍ISBN:978-4-10-104023-3

 対談から一週間後、書店に二作のポップが立った。宿題として持ち越された、宇佐見りんによる『オルタネート』へのコメントは――〈迷いながらも走り抜ける彼らの姿に目を奪われました。幾多の「私」の物語だと思います〉。
 老舗エンターテインメント小説誌を創刊以来初の重版に導いた加藤シゲアキと、純文学ど真ん中の三島由紀夫賞を史上最年少二一歳で受賞した宇佐見りん。かけ離れた場所で活動しているように思える二人の小説家は、対談記事にある通り、共鳴し合う部分が無数にあった。ここでは一点だけ、二人の同時代作家の共通点を指摘しておきたい。
『オルタネート』は一本の筋道だった物語を形成しない。三人の主人公の目的も関係性も、バラバラだ。ただし終盤の「祝祭」と題された章において、三人は共通の身振りを行うことによって、目には見えない連帯を結ぶ。その身振りは、二一世紀初頭の日本で生まれた流行語とも共鳴する。「そんなの関係ねぇ!」だ。
 人はただ生きているだけで、さまざまな関係との接続を強いられる。人間関係もそうだし、道徳との関係もそうだ。常識やルールの名のもとに、あなたは、若者は、親は子供は、男は女はこうであれと突き付けてくる、世間の呪いもそう。それらを全て受け入れることは、無個性で代替可能な人間になることと同義だ。代わりのきかない自分自身になるために、人は「そんなの関係ねぇ!」と、さまざまな関係の中から切断すべきは何かを選ぶ必要があるのだ。つまり、青春小説にとって必要十分条件である、成長の瞬間が、『オルタネート』はクライマックスで三者三様の形で書き込まれている。
 その視点を持って、宇佐見りんの『かか』と『推し、燃ゆ』を読んでみよう。すると、二作のクライマックスにはどちらも、主人公が他者に「そんなの関係ねぇ!」と言われる体験が置かれていることに気付く。そして、他者から切断される体験もまた自己の成長に繋がり得るのだということが、『かか』でも、それよりもずっと強い形で『推し、燃ゆ』においても記録されている。〈彼がその眼に押しとどめていた力を噴出させ、表舞台のことを忘れてはじめて何かを破壊しようとした瞬間が、一年半を飛び越えてあたしの体にみなぎっていると思う〉(『推し、燃ゆ』)。
 その視点を持って、もう一度『オルタネート』を読んでみよう。「そんなの関係ねぇ!」と繰り出したのは三人の主人公だったが、その身振りを目撃した人物は多数存在する。その経験によって、彼らもまた変化している。成長している。〈幾多の「私」の物語だと思います〉とコメントした宇佐見りんが、数え上げようとした「私」の数は三人ではないし、物語の登場人物だけに留まらない。なぜなら「そんなの関係ねぇ!」を目撃したのは、この小説を読み進めてきた全ての人だからだ。
 二人の同時代作家のこれからを、追いかけていきたい。そこで描かれるさまざまな身振りを目撃し、「私」の中身を作り変えていきたい。

 (よしだ・だいすけ)

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