書評

2020年11月号掲載

「壁」問題ではなく貧困と治安の問題だ

村山祐介『エクソダス アメリカ国境の狂気と祈り

池上彰

対象書籍名:『エクソダス アメリカ国境の狂気と祈り
対象著者:村山祐介
対象書籍ISBN:978-4-10-353651-2

 2016年のアメリカ大統領選挙でドナルド・トランプはメキシコからの不法移民を「強姦犯」と呼び、メキシコとの国境に壁を建設するという公約を掲げて当選を果たした。
 これ以降、トランプ大統領は「壁の建設が進んでいる」と主張しているが、実態はどうなのか。
 アメリカのジャーナリストは、こう語る。「トランプは大統領選で壁を建てると訴えたが、国境にはすでに壁はあるんだ。おいおい、ちょっと待ってくれ、という話なんだよ。ただ、米国民の多くは壁があることを知らないのが現実だ。大多数の人たちはたぶん、国境で何が起きているのかさえ知らないのかもしれないな」
 アメリカ人の大多数ですら知らないアメリカ南部の国境の実態を、日本に住む私たちは、もっと知らないだろう。
 国境に既にある壁を乗り越えたり、穴を開けたりして不法入国する人たち。アメリカに入国しても灼熱の砂漠を渡り切ることができないまま命が絶たれる人たち。そんなことがないように、砂漠に飲料水を置いて不法移民を助けようとするボランティアがいるかと思えば、銃を持って不法移民を摘発しようとする人たちもボランティア。
 メキシコからアメリカに向かう貨物列車の屋根に乗って国境を目指すグアテマラやホンジュラスの若者たち。彼らに食料や水を差し入れる心優しい鉄道沿線の住民たち。
 メキシコに住みながら、毎朝スクールバスでアメリカの小学校に通学してくる子どもたち。こんなことが可能だと信じられるだろうか。
 国境を越えてメキシコの歯科医院に通うアメリカ人たち。ウソのようなホントの話が次々に繰り出されるのが、本書の特徴だ。
 朝日新聞記者として「壁」の取材をしてきた著者は、朝日を辞め、フリーランスのジャーナリストとして取材を継続。体を張っての取材は、ときに命の危険を冒すことになるが、その成果がドキュメントとして結実した。
 不法移民が入ってくる壁の北側に住むアメリカ人たちは、不法移民を恐れているかと思いきや、多くの人が不法移民に寛容で、「壁をつくれ」とは言っていないという現実。むしろ国境から遠く離れ、不法移民を目にすることのない中西部や北部の人の方が壁建設に賛成なのだ。
 国境を越えてメキシコからアメリカに入ろうとする不法移民のニュースを目にすると、私たちはメキシコの国民が仕事を求めてアメリカに入ろうとしているのだと思ってしまう。たしかにその側面もあるが、実態は中米のエルサルバドルやホンジュラス、グアテマラからの移民が急増している。著者は、その理由を探るため、世界最悪の殺人発生率のエルサルバドルに入る。かつての内戦が終わり、「中米のシンガポール」を目指した同国が、なぜ破綻国家のようになってしまったのか。同国の発展を助けようと、日本も援助をしてきたのだが、空回りしてしまっていた。日本の善意とエルサルバドルの人たちの熱意が、なぜ失敗に終わるのか。途上国援助のあり方を考えさせる。
 エルサルバドルに見切りをつけ、国外に出た人たちは国内に残った家族に送金をするのだが、それが「送金依存症」を作り出し、自発的な発展に結びつかないという皮肉。
 問題は「壁」ではなく、中南米とアフリカの驚くべき貧困と治安の悪化であることがわかる。
 メキシコからアメリカへの入国を目指す人々の話なのに、なぜアフリカが登場するのか。実はアフリカから欧州に入るにはビザが必要だが、南米エクアドルにはビザなしで入れたという。そこから北へ向かい、メキシコとアメリカとの国境を越えれば、アメリカで難民申請ができるというわけだ。アメリカ南部の「壁」の問題は、世界の格差の象徴なのだ。
 トランプ政権は、アメリカに入ろうとする人たちを次々にメキシコ側に送り返しているが、送り返された人たちは、メキシコで殺人や性的暴行、誘拐の被害にあっているという。
 悲しくなる事実が次々に報告される一方で、弱い立場の人を助けようとする人間の気高さも描かれていることが救いだが、この事態の解決策はないのか。
 著者は、かつての日本の経験を例に引きながら、「国境を越えなくても、生きていける」世界を築くことが必要だと訴える。遠い道のりだが、決して不可能ではないと思わせる著者の筆致に説得力があり、悲惨な話の連続にもかかわらず、読後感は悪くない。

 (いけがみ・あきら ジャーナリスト)

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