インタビュー

2020年10月号掲載

短期集中連載『小説 イタリア・ルネサンス』をめぐって(一)

外出禁止さえも愉しんで書いた「オトナの男女」

塩野七生

作家生活唯一の「歴史小説」、その続編を書き上げ、三十年の時を経て完結させた塩野七生さんに話を聞いた。
ペスト禍に『デカメロン』を書いたボッカッチオよろしく、自室に籠って構想・執筆に没頭した日々とは――?

対象書籍名:『小説 イタリア・ルネサンス1 ヴェネツィア』(新潮文庫)
対象著者:塩野七生
対象書籍ISBN:978-4-10-118121-9

――なぜ、今になって小説を?

塩野 2017年の年末に『ギリシア人の物語』の第3巻でアレクサンダー大王を書いて、これで私も死ぬな、と思っていたら死ななかった。生きているのに何もしないというのも、けっこう疲れるんですよ。それで、疲れるのならいっそのこと書こうと思い、三十年前に書いて途中で放り出していた作品を、放り出したところから書き足して全4巻に構成し直したというわけ。通しテーマも、『小説 イタリア・ルネサンス』。まあ、三十年前どころか大学で卒業論文を書いていた昔にもどったことでもある。だって卒論のテーマも、「イタリア・ルネサンス」でしたから。
「なぜ今になって?」というのも、これまではずっと歴史エッセイを書いてきたからの質問だと思いますが、歴史エッセイと歴史小説は、とりあげるのは歴史ということでは同じでも、照明の当て方はちがうのです。具体的には、エッセイでは登場人物の創作はしないけれど、小説ではする。今度の作品でも、登場人物のほとんどは実在していた人ですが、主要人物になる男女二人は私が創作した。また、エッセイだと会話でも史料に残っているものしか使えないですが、小説ならば使える。エッセイでは「解説」していたことも、小説だと会話で表現できる、ということだから。

――でもなぜ、今までそういった書き方をしなかったのですか?

塩野 歴史エッセイで取り上げてきた男たちの存在感が圧倒的だったからですよ。ペリクレスでもアレクサンダーでもカエサルでも皇帝フリードリッヒでも、小説仕立てにする必要は感じなかった。彼らの行跡を追っていくだけで、充分にドラマティックだった。わざわざ私がドラマを作ってあげる必要なんて、まったくなかったのです。
 でも、こういうタイプの男たちは、これまでで充分書いちゃった。なのにまだ死なないので、別のタイプの男を書くことにしたのです。

――それはどういうタイプの男なんですか?

塩野 まず、その人物が生きた時代を決めることから始めました。十六世紀と。つまり、イタリア・ルネサンスの最盛期です。「最盛期」とは、その後にくるのは衰退期ということだから、時代の分かれ目に生きた、ということになります。
 それで、もしも私がそのような時代に生まれていたらどういう生き方をしただろう、と考えたのね。これでも私は女だから、まずは女だったら、と。地位が高くてお金持ちの男と結婚して、有閑マダムをやる性質(たち)ではない。と言って、男を踏み台にして出世する性質でもない。となると自立した女、となる。けれど、あの時代に女で自立する、しかも優雅に自立する道は、一般の娼婦と区別してコルティジャーナと呼ばれていた高級遊女しかない。というわけでオリンピアを作り出したというわけ。
 それで、男の方なんだけど......。

――男の登場人物まで作ってしまった。塩野さんは女性なわけですが......。

塩野 これも一種の後遺症かしらね。圧倒的な存在感の男たちを書いてきたことで、私の内部に男性的要素が生まれたのではないかと思うのです。彼らほどの男は、女の視点に留まっていたのでは書けない。こちらも男になった気にならないかぎり、絶対に書けません。
 というわけで、あの時代に生まれていたら、という仮定も、私の場合は女だけでは足りないので、男にもならざるをえなかった。こうして、マルコ・ダンドロが生まれます。
 それで、マルコの生き方だけど、これまで私がとりあげてきた男たち、つまり歴史上の著名な人物にはしなかった。非著名な男にしたのです。どうやら私が好むのはトップ中のトップと思われているらしいけれど、実際はそうではない。世間的には目立たない、それでいて何かはした男のほうが好きみたい。なにしろ死んでもよい年になっているのに死なないから書いたのだから、もうこうなったら私好みの男を書く、と決めたんです。
 要するに、私の中の女性的要素がオリンピアに結晶し、男性的要素はマルコになったと言ってもよい。この二人が最高の性愛関係に進んだのも、当たり前ですよね。もともと一人である人間が、女と男に分かれただけなのだから。
 また、この四巻すべてが、マルコという男の一生でもある。第一巻では三十代前半の彼。第二巻と第三巻では三十代後半。そして新作である第四巻は、四十歳から死までの彼、という構成。
 三十にして起(た)ち、四十にして惑わず、という格言があるでしょう。それに従えば、三十で起っても四十歳になるまでは惑ってもよいということになる。ただし、四十代に入ってもまだ惑っているのはNO。なぜかというと、ただ単純にサマになりません。東京言葉でいえば「みっともない」。そのうえ、周囲に迷惑をかけることにもなる。だから、書く側としては、第三巻で終わりにするわけにはいかなかった。四巻まで書く必要があったのです。
 たしかにマルコは、歴史上に燦然と輝くタイプの男ではない。歴史の背後に静かに立っている、その他大勢の一人かもしれません。
 そんなマルコを、私は「ジェンティーレ・アスペット」、日本語に直せば「佇まいの美しい男」として書きたかった。
「ジェンティーレ・アスペット」(gentile aspetto)とは、ルネサンス初期のフィレンツェに生きたダンテが『神曲』の中で使った形容ですが、そこでダンテは「金髪で、美男で、そのうえ佇まいの美しい男」と書いている。つまり、美男であることと佇まいの美しさはイコールではないのです。
 男が百人いるとしましょう。その中の十人くらいは美男。イタリアならば十五人はいるけれど、日本だと五人くらいで、まあ中間をとって十人とする。しかし、佇まいの美しい男となると、百人の中に一人いるか、いないかになってしまう。しかし、顔立ちは美男でなくても、佇まいは美しい男はいるのです。
 そして、佇まいが美しいということは、生き方も美しいということでもある。オリンピアはマルコを愛したのです。男関係の豊富な女が、いかにも愛しそうなタイプでもあるけれど。
 でも、書いていて愉しかったですよ。コロナ騒ぎによる外出禁止も、少しも気にならないくらいに。
 それも当然ですよね。男と女に分かれた私自身が、五百年昔のイタリアにタイムスリップして生きるのだから。
 とまあこんな具合で、ヒコウキが飛んでくれないために日本に帰れない状態での、読者へのおしゃべりの第一楽章はこれで終わりにします。では、また一ヵ月後に――。

 (しおの・ななみ 作家)

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