書評

2020年9月号掲載

リスクを避けるための本能

大平徹『予測学 未来はどこまで読めるのか(新潮選書)

西成活裕

対象書籍名:『予測学 未来はどこまで読めるのか(新潮選書)
対象著者:大平徹
対象書籍ISBN:978-4-10-603857-0

 予測すること――それは科学者の夢であり、ビジネスマンの望みでもある。そしてこの能力に長けた人が社長に多くいたり、恋愛の達人などと呼ばれたりしている。我々は予測ができれば、大儲けができるし、先回りして思い通りに事を運ぶこともできるようになる。しかしそれはそう簡単ではないこともよく知っている。それゆえ、たまたま予測が当たった時は思わず「神様ありがとう」などと呟いてしまうのだ。
 このように予測について思いを巡らすのはとても楽しい。きっとこの本の著者も楽しみながら書いていたに違いない。これだけ幅広い対象を、予測という横串を通して議論している本はあまり類を見ないため、予測で悩んでいる人は本書から様々なヒントを見いだせるのではないかと思う。例えば地震、火山の噴火、豪雨などの予測や、犯人の予測、相手が何を考えているかの予測など、これまで人類がどのように必死にこの難問に取り組んできたかについて、科学的な知見を交えて平易な文章で書かれている。そして一部の数学マニア(?)向けに、より詳しく知りたければ選書では珍しく式まで書かれているが、それは読み飛ばしても差し支えない構成になっている。
 さらに著者は予測と感動の関係、そして予測と意識についても深い考察をしている。私も著者と同じように、自分が驚いた時は、実はそれ以前に何らかの予測をしており、それが裏切られた時ではないか、と考えている。つまり、我々の持つ感情は、予測なしには語れないのだ。その予測は科学的なものもあれば、単に以前はこうだったから、という経験から来るものもある。とにかく感情を生み出す比較対象を作る思考活動が予測なのだ。
 たいした根拠のない場合の予測を、私は「予想」という用語で区別して使っているが、この本を読んでいて自分が自己矛盾を起こしていることに気がついた。それはあの厳密さの極限である数学の分野にも「予想」があるからだ。私も中学生ぐらいの時にハマった「コラッツ・角谷の予想」というものがこの本でも詳しく論じられている。これは小学生でも理解できるようなある規則で数字を操作していくと、どんな数から出発しても最後は1になってしまう、という手品のようなもので、操作は簡単だが何故そうなるかは未解決の難問である。これを知った当時、夢中で広告の裏紙を使って検算していたのを思い出す。コラッツ先生は大数学者であり、もちろん適当にこの予想を発表したわけではない。正しいと確信しているから世に出したのだ。つまり同じ予想でも、数学での予想は、私がよく行う競馬の予想、とは訳が違うのである。そこで、私の自己矛盾を解消するために、「数学という厳密な世界では、正しいと思えても厳密な証明という根拠が無いものはすべて予想と呼ぶ習慣になっている」と考えることにしよう。
 競馬の予想とサラリと書いたが、実は私は長い間、競馬を嗜んでいる。昔はデータを集めて様々な科学的分析をしたものだが、さっぱり当たらない。競馬をするのが初めての知人から教えてほしいと頼まれ、一緒に競馬場に行った時も、私は結局その知人に負けたぐらいだ。そしてある時、テレビで活躍している有名な競馬予想屋の方と話す機会があり、データを集めて予想しても実は半分も当たらない、という話を聞いてから、私はデータを分析するのをやめた。最近はAIによる予想も登場してきているが、見ていると決して良い成績とはいえない。いつか競馬は予想でなく予測できるようになるのだろうか。
 それではなぜ我々は予測するのだろうか。これはもちろん正解は無い問いかもしれないが、本を読んでいて思ったのは、もしかしたらリスクを避けるための本能なのではないか、ということだ。生物は命を守ることが最も重要なタスクであり、外敵がどこから来るかを予測して危険に備えておく必要がある。様々な経験や情報、そして論理を用いて、我々は事前にリスクを予測する。この能力を持たない生物は進化の過程で絶滅してしまうだろう。そして今残っている生物は何らかの意味で予測する能力が備わっていたと考えられ、それゆえ副作用としての感情を持つことができているのではないだろうか。
 ただし、これはあくまで私の「予想」に過ぎないことを明記しておく。

 (にしなり・かつひろ 東京大学教授/渋滞学者)

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