書評

2020年8月号掲載

小林秀雄山脈に登ろう

小林秀雄『批評家失格 新編初期論考集』『ゴッホの手紙』『近代絵画』

池田雅延

対象書籍名:『批評家失格 新編初期論考集』(新潮文庫)/『ゴッホの手紙』(新潮文庫)/『近代絵画』(新潮文庫)
対象著者:小林秀雄
対象書籍ISBN:978-4-10-100712-0/978-4-10-100713-7/978-4-10-100714-4

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 この夏から秋にかけて、小林秀雄氏の作品が新たに三点、新潮文庫の仲間入りをする。八月には『批評家失格』、九月には『ゴッホの手紙』、十月には『近代絵画』が出る。いささか大仰な物言いになるが、これは、一時期を画すと言っていい出来事なのである。
 小林氏の晩年、私は氏の本を造る係の編集者として十一年余り謦咳(けいがい)に接し、『本居宣長』(昭和五十二年刊)などのほか、第四次、第五次、第六次の全集にも携るという僥倖に浴したが、そういう僥倖に身をおいているうち、いつしか私は、氏の六十年にわたった文業を壮麗な大山脈のように感じるようになり、その山脈に、六つの秀峰がひときわ高く聳えていると思うようになった。作品名を発表順に言えば、「ランボオⅠ・Ⅱ・Ⅲ」「ドストエフスキイの生活」「モオツァルト」「ゴッホの手紙」「近代絵画」「本居宣長」である。
 ところが、この六つの秀峰のうち、「ランボオⅠ・Ⅱ・Ⅲ」「ドストエフスキイの生活」「モオツァルト」「本居宣長」はすでに新潮文庫で読めるようになっていたが(「ランボオⅠ・Ⅱ・Ⅲ」は『作家の顔』に収録されている)、「ゴッホの手紙」と「近代絵画」は他社文庫との契約事情等もあって新潮文庫では読めないという状態が続いていた。それが今回、解消され、新潮文庫に六つの秀峰が揃うのである。先に私が一時期を画すと言ったのは、こういう経緯を頭においてのことである。
 では、なぜ私が、この六作品を、ひときわ高い秀峰と感じるかだが、すでに久しいこの六作品に対する世評の高さは言うまでもないとして、この六作品こそは、小林氏が日本における近代批評の創始者、構築者と称えられるその「近代批評」の何たるかを劇的に示しているからである。
「近代批評」の「近代」とは、文学であれ絵画であれ音楽であれ、目に見え耳に聞える表の作品世界に留まることなく、作品を介して作品の奥にいる作者に会いに行き、作者と密に対(むか)いあう、対話する、というのがその心である。しかも小林氏は、そういう作者との対話を、評論としてではなく創作として、作品として書いている。「本居宣長」については、小林氏自ら、「『本居宣長』は、思想の劇(ドラマ)を書こうとしたのだ」と明言していたが、氏のこの言葉に準じて言えば、「ランボオⅠ・Ⅱ・Ⅲ」は「詩の劇」が、「ドストエフスキイの生活」は「文学の劇」が、「モオツァルト」は「音楽の劇」が、「ゴッホの手紙」と「近代絵画」は「絵の劇」が書かれているのである。
 今回の新刊にあたって、「解説」は、『ゴッホの手紙』は小林氏の孫で、「美のプロデューサー」として活躍されている白洲信哉氏が担当される。『近代絵画』は先年(平成二十五年)、「ヘンな日本美術史」で第十二回小林秀雄賞を受けられた画家・美術家、山口晃氏が担当される。
 そしてもう一点、『批評家失格』は、昭和八年(1933)、小林氏が三十歳で本格的に「近代批評」を書き始める前の時期、すなわち大正十三年(1924)から昭和七年に至る「日本の近代批評」の夜明け前の暁光集である。ここには、昭和四年、「様々なる意匠」で文壇に出て以来、一九世紀フランスにおける「近代批評」の創始者、先駆者、サント・ブーヴに骨の髄まで学びながら、「日本の近代批評」をいかにして生み出そうかと苦心する小林氏の覇気と気概が満ちている。「解説」は私が仰せつかり、日本における「近代批評」の夜明け前、小林氏の発した暁光はどんなに眩しかったかについて書いた。

 幸いにして私は、七十歳を二つも三つも超えたいまなお東京近郊・大阪近郊をはじめ北は仙台、西は広島と方々から声をかけてもらい、大学一年生から七十代八十代に至る人たちと、小林氏の作品を共に読む連続講話の機会を与えられている。こうした連続講話も、私は小林氏の作品を先々まで読み継いでもらうための編集者の仕事と心得、嬉々として務めているが、どの会場でも年度初めには右に述べた六つの峰のことを言い、小林秀雄を読もうとするならまずこの六つの峰に登って下さい、一つでもいいから登って下さい、これらの頂上に立って小林秀雄山脈を見晴るかせば、それぞれの峰がうんと間近に見えてきます、嘘だと思うなら登ってみて下さいと、小林氏の口ぶりを真似て言う。この登攀(とうはん)に、今ではもう何人もの人たちが挑んでくれている。

 (いけだ・まさのぶ 編集者)

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