書評

2020年8月号掲載

私の好きな新潮文庫

僕がのめりこんだ物語

植田博樹

対象書籍名:華麗なる一族(上・中・下)/家族狩り 第一部‐五部/沈黙 
対象著者:山崎豊子/天童荒太/遠藤周作 
対象書籍ISBN:978-4-10-110412-6 978-4-10-110413-3 978-4-10-110414-0/978-4-10-145712-3 978-4-10-145713-0 978-4-10-145714-7 978-4-10-145715-4 978-4-10-145716-1/978-4-10-112315-8

(1)華麗なる一族(上・中・下) 山崎豊子
(2)家族狩り 第一部─五部 天童荒太
(3)沈黙 遠藤周作

 ここ三十年ほど、無心に小説を読むことが少なくなった。テレビ局のドラマのプロデューサーになってから、これはドラマ化できるだろうか、という邪念がついつい頭をよぎる。
 だがそんな邪念がいつの間にか吹き飛ばされ、夢中になって心躍らせた作品もある。この作品が生まれた時に作家の思い浮かべた光景を僕も目の当たりにしたい。心打たれた登場人物に生で出会いたい。そんな思いから自分が映像化に関わった二つの新潮文庫作品をご紹介したい。

img_202008_22_1.jpg  その一つは、山崎豊子先生の『華麗なる一族』である。欲望と理想の相克という近代ビジネスのパートと、原始的な嫉妬が家族間で濃密に織りなされるパートの双方に身体が震える大傑作である。映像化に当たっては、圧倒的なモンスターである万俵大介(まんぴょうだいすけ)を描くために、原作ではそこまで大きくない悲劇の男、万俵鉄平(てっぺい)を主人公に据えようと考えた。テレビのお客様に感情移入させるには、等身大の人物が必要だ。魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)するこの作品世界において、唯一、理想に生き悲劇に死す鉄平を主人公にしたいと語った僕を、山崎先生は「私は負け戦に乗るつもりは一切ない。勝算はいかほどおありですか」と、驚く程大きな声で糺(ただ)された。繊細な腕時計の機構のように感情を計算しつくした上で津波の如きうねりへと編んだ物語を簡単には改変させないぞと、我々の覚悟を問われたのである。勿論、僕らも引けない。渾身の想いで考え尽くした構成案を滔々(とうとう)と説明した。先生の険しい顔は変わらないまま、仲立ちの方々の尽力により制作はスタートした。
 最終回の放送が終わり、山崎先生にお礼のご挨拶に伺ったところ、かの志摩観光ホテルから取寄せて下さったイセエビのお刺身をふるまって下さり、初めて笑顔を見せて下さった。我々が試みた物語の再構築にようやく納得されたのだ。その笑顔は鬼籍に入られた今も忘れられない。

img_202008_22_2.jpg  もう一作は、天童荒太先生の新潮文庫版『家族狩り』五部作である。次々に起こる凄惨な一家心中事件の細やかな違和感に、実は殺人事件ではないかと気づき謎を追う刑事と、事件に巻き込まれる児童福祉司と教師の姿を描いたサスペンスであり、人間ドラマである。映像化に当たっては、天童先生が、今、リライトするのならば、こう描くのではないか、というその一点を核として制作した。原作を頭の中にすべて叩き込み、天童先生が、この作品を執筆した時の心象風景を垣間見ようと願った。この問題だらけの世界に『家族狩り』を届けなければならないと志した天童先生の心象を僕らが共有せねば、この作品の映像化は意味がない。不遜(ふそん)にもそう思い詰めていた。会社の会議室に何か月も泊まり込み、脚本家の大石静先生や演出の坪井敏雄君と何百時間と考え尽くした。そんな僕らを見かねて、天童荒太先生が、台本の一部を加筆してくださるようになった。そこには、キーになるシーンの台詞に加えて、必ず励ましの言葉や作劇のヒントになるような手紙(メール)が添えられていて、それは嵐の中に、それでも確かに光る灯台のように、僕たちを高みに導いてくださった。僕はテレビドラマの制作者にすぎないが、この物語を伝えなくて、何のためにこの仕事に就いているのだという作品に出会うことがある。僕にとっては、それが『家族狩り』だったのである。

img_202008_22_3.jpg  最後に、いつか映像化したい作品として挙げたいのが、遠藤周作先生の『沈黙』だ。
 江戸時代のキリスト教弾圧の渦中で、ポルトガル人司祭が神の存在や信教の意味を問うという大傑作である。この国における、時にあやふやな、しかし時として頑固に横たわる奇妙な宗教観を、物語を通して炙りだしたいと狙っている。かくいう自分は、宗教に拘(こだわ)りのない凡俗の一人である。なぜ『沈黙』にここまで拘るかといえば、その理由は「オウム真理教事件」にある。僕は「オウム真理教」の幹部たちと同世代である。オウムに実際に傾倒し犯罪に関わった知己もいる。我が国には、確たる宗教観がそもそも不在であり、その無垢性(むくせい)ゆえにひとたび宗教に感染すると、命の重さすら霞(かす)んでしまうような絶対性、殉教性を帯びる。だが、本当にそこに神はいるのだろうか。そして、国家権力は、信教の自由を本当に保障し続けるものなのか。そんな構想をずっとくゆらせている。

 (うえだ・ひろき TBSテレビ・ドラマプロデューサー)

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