書評

2020年7月号掲載

特集 コロナ禍を暮す

コロナ禍を経て、住処を考える

新潮新書 隈研吾『ひとの住処 1964-2020』

隈研吾

対象書籍名:『ひとの住処 1964-2020』(新潮新書)
対象著者:隈研吾
対象書籍ISBN:978-4-10-610848-8

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 うまくいっている時、都市も建築もひとつの方向に走り続け、同じデザインを再生産する。方向転換は難しい。人間と同じで、ひどい目に合ってはじめて変われるのである。ある意味、都市や建築は、人間よりもっと図体が大きくて小回りがきかないので、方向転換はより難しい。コロナ禍の後、この大きい図体の怪物は、どこに向かって走り出すのだろうか。
 3・11の後、僕はリスボン大地震(1755)とシカゴの大火(1871)という大災害が、都市・建築をどう変えたのか考えた。18世紀のリスボンには中世の街並みが残り、道路は狭く、建物は崩れやすく、燃えやすく、27万人のリスボン市民のうち9万人が亡くなったともいわれる。その大惨事は、すべてのヨーロッパ人の心に衝撃を与え、それをきっかけに、神に頼らず、王に依存しない近代哲学、近代科学、近代政治、近代建築がスタートしたといわれている。その衝撃から産業革命とフランス革命が生まれ、この大地震の直後から、勘のいい何人かの建築家が、20世紀のモダニズム建築の典型となるような、整然とした幾何学的な建築の絵を描き始めた。リスボン大地震こそが近代都市、近代建築の引き金となったという歴史家もいる。
 それから約100年後のシカゴを襲った大火は、死者こそ少なかったものの、木造が中心であったシカゴの建築、2万件近くを焼き尽くし、800ヘクタールが焼失した。この惨事で、建築の構造性能、防火性能が重要視されるようになり、焼け跡には合理的構造システムを持つ強く大きな建築が次々と建ち上がった。これがシカゴ派という建築の新しいムーブメントとなり、この流れは、その後の20世紀初頭のアメリカの超高層ブームを生み出し、それがアメリカ支配の20世紀経済のエンジンになったともいわれている。事実、シカゴ大火以前のアメリカ建築は、技術においてもデザインにおいてもヨーロッパ建築から大きく遅れをとり、アメリカには都市といえるものは存在しなかった。シカゴ大火がなければ、20世紀のアメリカの覇権はなかったという人もいるほどである。
 このように大災害と都市や建築の関連をたどってみると、災害のたびに都市も建築も強く、大きなものへと進化してきたと整理することができる。当然の気持ちの流れ、歴史の流れで、誰も異議を唱えないだろう。
 そしてこの流れをさらにさかのぼっていくと、中世の終わりのペスト禍に辿りつく。しかし、3・11の頃、疫病がまさか自分の問題となるとは、僕を含めて多くの人は思いつかなかったので、誰もペストのことは議論しなかった。ここでもまた同じ警句を繰り返さなければならない。うまくいっている時、人間は変わろうとしないのである。大地震も津波も、東京にいた自分にとってはヒトゴトだったのである。
 中世ヨーロッパを襲ったペストの死者は2億人といわれ、リスボン大地震の9万人の比ではない。狭く不潔な、ゴチャゴチャとした路地が病気の大きな要因と考えられて、広くまっすぐな道路、整然とした建築が求められ、ルネサンスという新しい時代が始まったのである。リスボン大地震もシカゴ大火も関東大震災も、ペストから始まった大きな流れの中のエピソードということで整理すると、頭がだいぶすっきりした気がする。
 では、今回のわれわれを襲った疫病は、この都市、建築の一貫した流れ、すなわち大惨事の後に、より強く、より大きなものへと進化するという流れを繰り返すのだろうか。僕は何か根本的に違うことが起きたような気がするのである。もう強く大きくしようとは誰も考えない気がするのである。強く、大きなハコに閉じ込められてきた、われわれのライフスタイル自体が、今回の疫病で全否定されたように感じられるからである。
 ペストからの流れの果てに、われわれはゴチャゴチャとしたものを排除し、強く、大きなハコで埋めつくされた、「合理的」で「衛生的」な20世紀都市モデルへと到達した。そのオオバコの極致は超高層のオフィスであり、そこにつめ込まれて働くことが最も効率的であり、オオバコにいることがエリートの証であった。そのエリートは、朝・夕、同じ時刻に鉄のハコ――電車、バス――に閉じ込められて、出勤し、退社する。
 しかし振り返ってみると、実際のところ、このオオバコモデルは少しも効率的であったとは思われない。現代のITテクノロジーをもってすれば、オオバコに閉じ込められなくても、あるいは都市に閉じ込められなくても、充分に効率的に仕事をし、コミュニケーションすることが可能であった。むしろストレスと不効率しか生んでいなかったし、オオバコの排出する熱とCOで、オオバコの外は、よりひどい環境になって、地球は傷ついた。しかし、われわれは20世紀初頭に、オフィス、大工場、大都市というモデルが作られた時、そのうまくいっていた時のいい思い出から抜け出せずにオオバコをさらに作り続け、積み上げ続け、都市というオオバコを拡大し続けていたのである。
 そして、オオバコは、われわれが気がつかないうちに、オフィス以外の様々な領域に伝染していた。たとえば、教育とは、いつのまにかオオバコの中に子供を詰め込むこととなっていた。オオバコという「均一で平等」な空間の中で、均一なテキストを読まされ、試験で競わされた。その延長線上に、オフィスのオオバコの中で競争が繰り返されて、敗れたものはオオバコから追い出された。住居においてもマンションというオオバコがデフォルトとなり、その間取りも、内外装の仕上げも、日本全国ほとんど同一のものとなった。そのオオバコに住んでいることが、エリートの証となっていたからである。そのようなオオバコのもたらしたすべてのストレスに、不自然に、われわれは気が付かないフリをしていたのである。オオバコの図体の大きさが、われわれをそう仕向けていたのである。
 ではどうすればオオバコから出ることができるのだろうか。今回、僕は一人で歩けばいいことを学び、そして実践を始めた。ハンマーを持ってオオバコをすぐに壊すというわけにはいかない。しかし一人で歩き始めれば、オオバコから自由になることができる。一人で歩けば、人との距離を自分で自由に選ぶことができる。距離をとりたければ、いくらでも遠ざけることができるし、抱きしめたい時は、ギュッと抱けばいいのである。もちろんコロナの後のことだが。
 そのように、ハコの外を歩きたいと思う人間が増えれば、オオバコは、いつかは消えていく。コンクリートでできた現代建築の物理的寿命は意外に短い。ペスト以降に進化して世界に溢れたオオバコは、ある意味仮設建築であるようにも、僕には見え始めている。そういう眼で見ると、今回の惨事は、強く、大きいものへと、われわれをプッシュし続けた従来の惨事とは質が違うもののように、僕は感じている。
 これはひとつの折り返し点なのである。大きな流れが反転して、逆向きに流れ始めようとしているのである。コロナは、強く、大きなハコは、逆に人間という生き物を不幸にすることをわれわれに気付かせてくれた。思い返してみれば、流れを反転しなければいけないと、色々な人が気づいていた。オオバコなんてもう嫌だと、実はわれわれ全員が気づいていたのかもしれない。しかし、都市や建築というのは先述したように、図体が大きい。すなわち政治、制度、経済のすべてが、そのオオバコの維持、拡大を前提にして動いているので、とんでもない図体となっているのである。単にコンクリートが重くて、固いというだけではない。だから、気づいていても、方向を変えられなかった。それでも、ついに折り返す時が来たのである。

折り返し点の秘策

 ではどんな感じで折り返せばいいだろうか。僕にはちょっとした秘策がある。それは、壊さないで、少しずつ足していくというやり方である。
 オオバコの方法というのは、実は壊すという方法であった。壊さないと、ハコは建てられない。古いものを壊したり、自然を壊したりして、新しいハコが建てられた。ゴチャゴチャした不潔な街がダメだというので、壊し、更地にして、そこにハコを建てた。壊し、新たに建てることで経済はまわっていた。そんな形でまわり始めた経済は、なにか新しい理由を見つけてきてはそこにあったものを壊し、時代が必要とする新しい理念をまとった、ピカピカとした「新しいハコ」を建ててきたのである。それが「経済」というものであり、その壊し、建てる経済を支えるためのシステムが長い間「政治」と呼ばれていたのである。理念はころころ変わるが、壊して新しいものを建てるという方法自体は、ずっと変わらなかったのである。
 今回もきっと、疫病リスクのある都市を捨てて、緑の中に衛生的なスマートシティを建てようとするプロジェクトが、すぐに動き出すであろう。
 それでは全然折り返したことにならないのである。折り返すということは、壊さないという決断をすることである。もうハコに頼らないと決断することである。新しいハコを建てれば、何か新しい生活が始まり、新しい世界が生まれるという幻想を捨てることである。この幻想の導くままに、人類はオオバコに向かって、つき進んできてしまったことを、もう一度思い起こしてほしい。
 ハコに頼らずに、ハコを出て自分自身で歩くことである。そのためには一緒に変わる仲間も必要である。仲間とつながるための技術はすでにたくさんあるので、それを使えばいい。仲間とつながるために、ハコを保存する必要はない。ハコがなくても、仲間とは簡単につながることができる。
 仲間と同じように大切なのは、歩き廻るための場所である。今回のコロナ禍で、僕自身、自分の家のまわりの場所と、ずっと親しくなることができた。こんなにおもしろい場所が近くにあったことに、初めて気が付いた。「住処」はハコではなく場所のことだったのである。ハコによってではなく、場所によって自分が生かされていることを知った。
 自分で歩くということは、場所に少しずつ足し算をしていくことである。ハコを建てるやり方は、場所を壊し、殺すことだった。しかし、足し算のやり方でいけば、場所はより愛しいものへと変わっていく。日本のデザインの本質、日本建築の核心というのは、そんな小さくて地道な足し算にあった。むしろ、壊すことは野暮とされた。小さなモノや小さな情報を少しずつ足しながら、場所をより歩きやすく、歩いて楽しいところへと変えていくのである。
 そうやって、ハコとハコの間の場所を変えること。そうすれば、人はどんどんハコから出ていくだろう。その地味な方法こそが、本当の意味でラジカルな方法、すなわち根っこから変わるやり方である。そうしてこそ、われわれは折り返すことができるのである。

 (くま・けんご 建築家)
*コロナ禍にあたり、近著にちなんでの緊急寄稿である。なお、冒頭の写真は1964年当時、10歳の頃の筆者。

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