書評

2020年6月号掲載

幸せになるために必要なすべて

ベルナルド・アチャガ『アコーディオン弾きの息子』(新潮クレスト・ブックス)

東山彰良

対象書籍名:『アコーディオン弾きの息子』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ベルナルド・アチャガ/金子奈美訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590166-0

 スペインはバスク地方出身のベルナルド・アチャガの手になる、バスク語によって書かれた小説である。手元の資料によれば、1951年生まれの著者は、話者数が百万人にも満たない母語で創作をしながら世界的な高評を博している稀有な作家だ。浅学非才の私はアチャガという作家はおろか、バスク地方についてもほとんどなにも知らなかった。ネットで検索にかけてみると、予測変換のトップには「バスクチーズケーキ」と出てくるので、おそらく読者諸賢にもあまり馴染みのない土地柄なのではないかと思う。ざっくり言えば、バスク地方とはスペインとフランスにまたがる、歴史的にバスク人が暮らしている地域のことを指す。そこでは文化も言語も独自の発展を遂げ(もしくは停滞し)、バスクの人々は前世紀においても国境に縛られることなく両国を自由に行き来していた。今作の舞台となっているのは、著者の故国でもあるスペイン側のバスク地方、オババという名の架空の山村である。
 1999年、ダビの墓碑のまえに友人のヨシェバが立っている。場所はカリフォルニア。墓所はダビが伯父から受け継いだ心地よい牧場のなかにある。故人が生前に書き記した墓碑銘は三カ国語で彫られている。英語、スペイン語、そしてバスク語だ。「この牧場で過ごした日々ほど楽園に近づいたことはなかった」スペインからアメリカへやってきたヨシェバは、ダビの未亡人から亡き夫が書いた回想録を託される。作家のヨシェバはスペインへ帰国したあとで、この回想録を小説に仕立てる。私たちが読むのは、そう、親友のダビを主人公にしたヨシェバの小説なのだ。
 1964年、十五歳のダビは故郷のオババでなに不自由なく暮らしていた。幼馴染みのヨシェバを含むまわりの友達は、在郷の名士たちの子息令嬢ばかり。貧しい農村とは明らかに一線を画した社会に属しているものの、人情に厚い「幸福な農夫たち」は屈託がなく、なにより誰もがバスク人という絆で結ばれている。アコーディオン奏者として名を馳せている父親のおかげで、ダビ自身もかなりの音楽的才能の持ち主だ。教会でオルガンを弾き、祭りではアコーディオンを弾く。親友の農民たちといっしょに野山を駆け、憧れの女の子に胸をときめかせる日々。しかし、牧歌的だった少年時代に突如として亀裂が走る。二十五年前のスペイン内戦のときに、村で起こった虐殺にどうやら父親が関わっているらしいと気づいてしまうのだ。そこからダビの目は少しずつ真実に向けて開かれていく。誰もが知っているのに自分だけ知らない事実がある。アコーディオン弾きの父親は民族の裏切者かもしれない。大好きな仲間たちの親を、自分の父親が殺したかもしれない......。
 良い小説は往々にしてひとつのメッセージを反復する。この作品のなかで、それはときに流行歌というかたちをとり、ときに病気に罹った女友達が引用するヘッセの小説の一節に託される。「なぜ、幸せになるために必要なすべては、私から遠く離れてあるのだろう?」そのような単純な問いと気づきの繰り返しが収斂していくのは、けっきょくのところ、幸せとはなんなのかという根源的にして永劫不変のテーマなのだ。アコーディオン弾きの父親に対する反発から苛烈な民族闘争へと身を投じ、大きな代償を払ったダビだからこそ、死の間際に訪れた気づきを回想録というかたちで書き残さずにはいられなかった。彼の心を端的に言い表しているのが、たぶん、あの墓碑銘なのだ。
 アメリカの牧場は故郷の代替品にすぎないのかもしれない。だけど、そこには愛する妻と娘たちとの満ち足りた単純な生活、つまりダビにとって「幸せになるために必要なすべて」があった。無理解な父親との和解は、さらりと書かれているにすぎない。そのことに物足りなさを覚える読者もいるかもしれない。だけど、忘れてはいけない。この作品はダビの回想録を元に、彼の親友のヨシェバが創作した小説なのだ。ダビ自身はもちろん父親との確執にもっと紙幅を割きたかった(と思われる)。けれど、ヨシェバの関心事はもっと別のところにある。ダビとともに駆け抜けた過激派組織時代の後悔を彼もまた彼なりに総括し、小説というかたちで告白し、そして許される必要があったのだ。
 単純な真実ほど、幾多の困難と挫折と苦痛を舐めたあとでしか気づけない。「人生こそがもっとも素晴らしいもの」という真実を、ダビとヨシェバはようやく理解した。この物語をとおして、私たちもまた彼らが摑み取ったものに触れる。誰もが真に大切なものに気づかされるだろう。

 (ひがしやま・あきら 小説家)

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