対談・鼎談

2020年1月号掲載

座談会

文士の子ども被害者の会 後篇

阿川弘之長女      新田次郎次男     檀一雄長女
阿川佐和子  ×  藤原正彦  ×  檀ふみ

父が望んだもの、伝えたもの。
自慢話の末に思わぬ感動(本当です)が待つ大放談会。

於・神楽坂la kagū

藤原 母からの被害は父のよりもっと大きいですね。母は手が出ますからね。

阿川 お父さまは殴らない?

藤原 ええ。母には何度かつねられました。つねりながら、同時に自分の口もグーッて曲がってくるんです。

阿川 本気で力入れるんだ!

藤原 もちろん。痛かったですよ。しかも母からの被害は、母は小説より随筆が多かったから......。

 ああ、ネタにされるという意味では随筆の方が小説より具体的な現実に基づくから、家族の被害は大きくなりますよね。でも、うちの父は私小説も書くので、『火宅の人』ではフミ子という女の子がニワトリの餌なんか食べて、ワーワー泣いています。

阿川 うちも父の私小説に私が出てくるの。あることないこといろいろ書かれましたよ。てい先生の随筆に、正彦少年もずいぶん登場した?

藤原 小学校の時に、友達の手の指を折ったとかね。私が悪いというより、高いところから飛び降りたら、そいつが私の着地点に手を置いていたというだけなんです。

 さあ、折ったのは誰の責任でしょう?(会場笑)

藤原 私は中学校の時、サッカーと一緒に砲丸投げの選手もしていたんですが、廊下で砲丸を投げて床へ穴をあけたとか、羽目板を叩き壊したとか、それで母が小学校、中学校、高校と学校へ何度も謝りに行かされたとか。実にオーバーに書かれている。

 でも、事実ではあるんでしょう?

藤原 砲丸は誤って肩から落としただけ、通路の羽目板を殴って壊したのは、なんかムラムラムラッとして発作的に。今から考えると、あれは性的欲求不満だったのではと。

阿川 そんな、ゴリラじゃないんだから(会場笑)。

藤原 確かにその件で母が謝りに行ったりはしていました。高二の時、実力テストはクラスで一番だったのに、漢文の授業をこっそり抜け出したため、漢文の先生が意趣返しで成績を出してくれなかった。学年末、担任に落第と言われたのを、母が謝りに行って、どうにか進級できた。でも、そんなに何度も謝りに行ったわけではない。小中高それぞれで二回ずつくらいと思います。

阿川 充分多いって感じもしますけど。お母さまはお兄さんや妹さんについても書かれているんですか?

藤原 私のことがほとんどです。

 愛されてたんですね。

藤原 違う違う。兄は真面目一方だし、妹は引っ込み思案で、私だけが生まれた時から猪突猛進で、変わったことばかりしたり考えていたから書くネタにしやすかったんです。いま思うと、私は数学者以外なれなかったですね。

 数学者というのはそういう方が多い?

藤原 ええ。まず団体行動が苦手。協調性があったら、数学なんてやっていけません。だって、一人でじーっと一年でも二年でも考え続けなければいけない。数学でなくてもいいけど、阿川さん、何年も朝昼晩考え続けるってできます?

 阿川さんには絶対無理。絶対じっとしてない(会場笑)。

藤原 机にへばりついて一時間もすると、もうフーフーでしょ?

 一時間もできない。阿川さんはせいぜい三分です。

阿川 あなたが答えなくていいのよ(会場笑)。

藤原 問題は、わが家は妻も随筆を書くんです。この被害もあります。先年、家族で八ヶ岳へ登った時、十メートルくらい向うに百キロ級のクマが出た。そしたら妻が随筆に「夫はいつも武士道精神とか偉そうなことを言っているくせに、家族を置いて一目散に逃げた」云々と書いた。真っ赤な嘘です。私はその巨大なクマを見た瞬間、後ろには行ったけど逃げはしなかった。激しく後ずさりしただけです(会場笑)。

 激しかったのがいけなかったんですね。でも、ご自分も奥さまのことお書きになるから、痛み分けじゃないですか?

藤原 私は「妻の性格が悪い」と本当のことを書いているだけですが、向こうは嘘を書きますから悪質です(会場笑)。家に遊びに来た友人のオーストラリア人弁護士に女房が「妻は悪口を書く夫を名誉毀損で訴えられるか」と聞いたら「もちろん」でした。

作文の大作を書く

阿川 檀さんはお父さまから「書きなさい」と勧められたり、文章を褒められたりしたのよね。

 私は小さい時、ちょっとゴマすりの、いい子ちゃんだったんで、「父の後を継いで作家になります」みたいなことを言ったのね。

阿川 それはやっぱりお父さまが好きだから?

 正確に言うと、父が機嫌よくしているのが好きだったのかなあ。

阿川 娘が「作家になります」みたいなことを言うと、お父さまはご機嫌よかったのね?

 多分それを幼心にわかっていたんでしょうね。父が喜ぶから、作文の宿題なんかも、小学校一年生なのに遠足について十枚ぐらい書いちゃうんですよ。

藤原 すごいね、それは。

 そうすると、父がお客さまに「この子は大作家になりますよ。大河小説を書きます」なんて言うの。

藤原 十枚という長さだけで作家は感心しないから、きっと内容も良かったんですよ。

 内容は読んでないですもん、父は。

阿川 十枚書いたということを評価なさった?

 うん。あなたも遠足で十枚書いたって噂が。

阿川 いや、私は十枚は書かないけど、やっぱり遠足の作文をたしか小学校二年の時に書かされたんです。
 高尾山へ行ったんだけど、遠足って前の日から興奮するでしょ? 何を持っていこうかとか、枕元にこれを置いてとか。一人五十円のおやつに、どんなものを買ったとか。それで、なかなか寝られないと思っていたら、朝、カタカタカタという台所の母の音が聞こえて、目が覚めて。お弁当作ってくれているってわかって、嬉しくて嬉しくて、起き上がってどんなお弁当ができてるかなって思っていたら、友達が迎えに来て、学校へ行ったら校庭にみんながクラスごとに並んでて、「おやつ、何買った?」なんていうお話をして......。

 長くないですか、それ。

阿川 それから高尾山に行きました、で終わったの。そしたら、先生から赤ペンで、「高尾山に行ってからのことも、もう少し書いてほしかったですね」(会場笑)。その時、作家の娘なのに私には文才がない、と思ったことを覚えてる。檀さんは書くのが好きだったの?

 小っちゃい頃は、嫌いではなかった。

阿川 私は嫌いだった。読書感想文とか大嫌いだった。藤原さんは作文、得意だったんですか?

藤原 僕、作文は得意じゃなかったです。檀さんはオールラウンドの秀才ですよね。

阿川 だって東大受けたんですもん、この人。

 落ちたし。

阿川 まあでも、受験すること自体がスゴイじゃない。

 クラス全員が受験するような学校だったんですよ。

藤原 ああ、教育大附属でしたね。当時、あそこは日本一の秀才校。

こうして女優にさせられた

阿川 だから、彼女は何かの間違いで女優になったんですけれども、作家になるという夢がずっとあって――。

 夢って、真剣にそう思っていたわけじゃないんだけど、ただそう言ったら父が喜んでしまって、それを何だかずっと覚えているんですね。中学校の時も、私が学校の文集に何か書いたら、それを父がちゃんと読んで、「よく書けていました。頑張れば作家になれます」って言われた。これには吃驚して、(あれ? 私、作家になるんだったかしら)とか思って。
 私が女優になったのも......別に女優になりたくなかったんですよ。なるつもりも全然なかったのに、そういう話が持ち上がった時、父の義弟が東映という映画会社にいたものですから、まず父へ話が行って、父がOKしちゃったんですね。で、父から「やりなさい」と。

阿川 本人の意志も聞かずに?

 本人は本当に拉致されるみたいに撮影所へ連れて行かれたら、その日いきなり衣装合わせとカツラ合わせだったんです。ただ撮影所見学って言われて行ったのに、それがカツラ合わせだとわかってボロボロ泣いたんですよ。

阿川 なんで女優になりたくなかったんですか? だって、「あなたは女優さんになれる」とか言われたら、とりあえず「あら、そうかしら?」って普通喜ぶでしょ?

 それはなかったの。通っていた学校が本当にもう全員が東大に行くような学校だったので......。

阿川 今日はなんかあっちもこっちも自慢話ばっかりで、イヤな感じだわ(会場笑)。

 とにかくそんな環境だったから、女優になるって発想がないのよ。大体、私は普通に生きようと思っていたし。カツラ合わせで泣いた、その映画の主演が高倉健さんだったんです。東映の人たちも「なんでやりたくないんですか、主演は健さんですよ」って説得してくるんだけど、私は受験校の、しかも女子高生だから、高倉健ってどういう人か全然知らなかった。当時の任侠映画......ご存じですか?

藤原 もちろん、チャンバラ、西部劇、ギャング、任侠など暴力ものは全部好きです。

 その任侠もの、まあ、やくざ映画ですよね。それで健さんブームがすごい時代でした。健さんもまだ四十になるやならずの頃で、脂の乗った時だったと思うんですけど。でも、私は健さんを知らないから「どういう方ですか?」って聞いたら、東映の人も困って「江利チエミさんの旦那さんだった方ですよ」。江利チエミさんも私、サザエさんのお顔しか知らなかったので、サザエさんの旦那さんってつまり......。

阿川 マスオさん?(会場笑)

 ......って思ったぐらいだったの。それがカツラ合わせの日に、私が泣いていたら、その時はもうカツラ部屋から外へ出ていたんですけど、通路の向こうからちょうど健さんが歩いていらした。「あ、主演の高倉健さんです。こちら檀ふみさん」って東映の人が紹介したら、健さんは「高倉です。よろしく」とひと言だけ言って、スタスタと去って行ったの。

藤原 カッコよかったでしょうね。

 その後ろ姿を見て、こんなに素敵な男性が日本にいるんだと思った。

阿川 一目で惚れちゃったのね。今までそんな人に会ってなかった?

 全然会ってなかった。だって、絶頂期の高倉健ですよ。それでちょっと、本当にちょっとだけ、「この人にまた会いたいな」という気持ちが芽生えたの。

阿川 純真だったのね、昔は。

 でも、まだ映画に出る気はなくて、家へ帰って拗ねていたら、夜中に父に呼ばれたんです。

阿川 夜中に?

 もう真夜中。呼ばれて父の書斎へ行ったら、「こういう映画に出て、女優になれという話が来ていますが、あなたはどうするの? やるの? やらないの?」「え、私はやりません」「なぜやらないの?」「私、こんなに背も高いし、顔もまずいし、色は黒いし」。その頃、水泳部だったので真っ黒だったのね。で、「演技のエの字も知らないし。私はちゃんと勉強して大学に行って、きちんとしたお仕事に就きたいと思います」と言った。

阿川 仕事をしたかったの?

 当時は学校の先生になろうと思っていたのかな。

阿川 ああ、それは似合ってたと思う。

 普通、娘が女優なんかならずに、ちゃんと大学へ行きたいです、真面目に勉強したいですって言ったら、親は泣いて喜びますよね。ちゃんとした娘に育ったなあって。

藤原 正しい子育てにより堅実な娘になったと。

 ところが父はすごく不機嫌になって、「顔がまずいのが何だ。背が高いのが何だ。チャップリンを見なさい。ジャン・ギャバンを見なさい。みんな努力です。やるの? やらないの?」(会場笑)。こうなったら、父はうちでは絶対君主でしたから、もう逆らえないんです。「はい、すみません。じゃ、やります」って本当に泣きながら答えました。

阿川 女優は泣きの涙で始めたの?

 そういうことです。でも、そこにちょこっと高倉健さんともう一遍お会いできるんだなという......。

阿川 下心はあった(会場笑)。

 ただ、その時に父が言ったのは、「やればいいじゃないか。女優になっていろんな経験をすれば、三十歳ぐらいになって、いいものが一つ書けるかもしれないよ」。

阿川 ああ、最終的には書かせたかったんだ。

 あの方にとっては、書くということが多分すべてでした。そのくせ不思議なことに、父は大してたくさんは書いていないんですけどね。でも、作家とか詩人とか物を書くことは、至上の素晴らしい仕事だと思っていた気がします。だから娘が書く仕事をするかどうかについても、何か思いがあったんじゃないかな。

文士の家にありがちなこと

 新田次郎さんはいかがでしたか? 正彦さんが物を書くことに対して、どう思われていました?

藤原 私はずっと数学一本だったんですね。二十歳ぐらいで数学科に進学してから七、八年は数学以外に何もしない、新聞も読まない、本も読まない、雑誌も見ない、テレビも映画も見ない、数学漬けの生活でした。

阿川 藤原さんは、タバコ、酒は脳みそに悪いから、数学者はあんな堕落したものをやっちゃいけない、趣味も持っちゃいけないと書いてらっしゃいましたね。

藤原 そう。碁も将棋もダメ。

阿川 女性も?

藤原 いや、そう。

 「いや」と「そう」?(会場笑)

藤原 実は大学一年まで将棋をやっていて、東大の学内将棋大会で準優勝したことがあります。

阿川 また自慢話の匂いがするゾ。

藤原 碁もそこそこに強かった。だけど数学科へ入ってからは、将棋も碁も麻雀も断って、女も断ったんです。

 だから結婚が遅れちゃった?

藤原 父だけでなく母も堅くて、私は大学生になっても、男女交際はグループ交際以外認めません、と言われました。しかも、数学のために本格的に女を断ったから、二十代半ばまでちゃんとしたデートをしたことがなかった。十代はサッカー、その後は数学しかしてこなかった。アメリカへ行って男が爆発しちゃったんですね。

阿川 日本に戻ってきたら落ち着きました?

藤原 日本だとどうも勝手が違って、お見合いをしても、うまくいかなかった。一引分け四連敗でした。

 佐和子さんだって、お見合いしてうまくいかなかった。

藤原 こんなかわいい人が、どうしてうまくいかないんですか。

阿川 まあ、何てお答えすればよろしいのかしら?(会場笑)

藤原 お見合いは、僕みたいなちょっと型破りな人はダメなんですね。もっと真面目な男性じゃないと敬遠されます。阿川さんがうまくいかなかったというのは、それは自分で断ったんでしょ?

阿川 断ったこともありますけど、断られたこともありますし、親のせいの時もありました。あんなお父さんのところの婿はとても務まりません、と仰った方もいました。

藤原 あんな立派な阿川弘之先生を。

阿川 やっぱり文士の家って真っ当な家庭じゃないですからね。

藤原 話を戻すと、数学科へ入ってから八年くらいは数学一本でした。

 そうすると成果が上がるものですか?

藤原 どの世界もそうじゃないかと思いますが、プロになるには最低五、六年は、もうそれ以外何も考えずに打ち込むという期間がないと、本物にはなれないんじゃないでしょうか。
 それからアメリカの大学で三年ほど教えて帰ってきたら、父は檀一雄さんがそうであったように、書くことが至上の仕事だと信じているんですね。で、私に「アメリカでの生活を書いてみないか」と言うんです。私は単なる数学者で、数学科に入った十九歳の頃から専門書以外読んだこともないし、数式以外書いたこともない。小中高で国語の点数もよくなかった。そこで私がパッと気づいたのは、私に書かせたって、本になりっこない。父はその原稿を自分の小説のネタにしようと思っているに違いない。作家のいやらしさを感じたんです。

阿川 新田先生は前科があるんですものね。

藤原 そう。その記憶があったからね。

阿川 藤原さんが小さい頃から、学校で何してきたとか、どんな遊びをしたんだとか、新田先生はものすごく丁寧にお聞きになったんですって。子どもとしては嬉しいから、喧嘩は水車戦法で勝ったとか、その手のことを詳しく喋ったら、フンフンって聞いていたお父さまがそれを小説に使っちゃう。

 文士の家にありがちなことです(会場笑)。

藤原 父は、私が「学校で喧嘩した」と言うと、「その時おまえ、左手で相手のどこを掴んだんだ、右手でどこをどうやって殴ったんだ」とか、一切合切訊いてくるんです。「周りは何て囃してた?」とかね。それがそのまま本に出てきたりするんですよ。

 息子のしたことが、そのまま小説の登場人物の体験になるわけですね。

藤原 そうです。私が中学校二年の時、父が学習研究社の「中三コース」って雑誌に小説を連載したんですよ。私は中二だから最初のうち知らなかったんですが、読んでみるとその小説に僕から聞いた中学生活のことが細かに書かれてあって、事もあろうに僕に似た主人公は女の子に淡い恋心を持ったりもする。僕としては、これはもう許せなくて、青ざめて怒ったことがあります。

阿川 お父さまに向かって?

藤原 いや、これから学校のことは一言も言うまいと決めた。家族からもどんどんネタを探す作家のいやらしさに気づいたんですね。
 で、アメリカから帰ってきた私に、父が「おまえの体験をまとめてみたらどうか」と言った時、私の第一印象は「あ、またネタにしようとしてるな」。二番目は――母はアメリカにいる私を恋しがって、一週間に一通ぐらい手紙をくれていました。兄と妹は結婚していて、僕だけ出遅れて両親と三人で暮していましたから、僕がいなくなって母は寂しくなったらしい。それで、母から手紙が届くと、二、三回に一遍くらいは返事を書き送っていたんです。

阿川 律儀な息子ね。

藤原 そしたら父がそれを読んでいて、「おまえがアメリカから三年間書いてきた手紙は全部面白かった」と言うんです。

檀・阿川 へえぇ。

藤原 「どの手紙もみんな面白く書くなんて普通はできない。もしかしたらおまえ、書けるかもしれない。書いてみろ」と。それで、俺にも書けるかな、と思ったのが二番目の印象。私も一応文士の子どもだから、お二人もそうだと思うけども、書くというのが特別な仕事じゃない。書いてみようと気軽に思ったんです。百姓の息子が自然に草を抜くのと同じ、みたいな。

 私、そんなふうに思ったことない(笑)。

藤原 帰国した時はもう三十二歳でしたけど、それがきっかけで『若き数学者のアメリカ』を書き始めて、一章書くたびに父に見せたら「面白い。この調子で」とかおだてられて......。

 最初の読者がお父さまなんですか。素晴らしいですね。

阿川 直しは入らないんですか。

藤原 五枚に一ヵ所くらいアカが入りました。佐和子さんは弘之先生にずいぶん「てにをは」を直されたそうですね。

阿川 まだワープロの前、原稿用紙の時代でしたから、「名前を書く位置が悪い」から始まりました(会場笑)。

藤原 それで『若き数学者のアメリカ』を完成させたら、新潮社に掛け合ってくれました。

阿川 なんでボツ原稿が多かった新潮社に掛け合うんだ?

藤原 文春も講談社も逃げちゃったから。若造の数学者の下手な文章を読まされた揚句、その出版を断ると新田次郎との関係が悪くなるだろうと恐れたんですね。

阿川 お父さまは新潮社だけでなく、最初は各出版社に売り込んだんですか?

藤原 そうなんです。あちこちに息子の原稿を売り込んだわけ。

 父の愛、すごい。

藤原 でも、みんな読むのをいやがった。ただ一人、新潮社のある編集者が「読んでも出すとは限りませんよ」と何度も念押しの上、読んでくれました。その編集者は読んで面白いと思ったけど、念のため社内の若い女の子二人に読ませてみた。そしたら「めちゃくちゃ面白い」と。これで出版が決定しました。父は書き上がってからずっと、「とても面白い。だが、親の贔屓目ということもあるからな。調子に乗っちゃいかんぞ。第三者に読んでもらわないと」と言っていました。

 ああ、冷静な方。でも、文士に贔屓目って、実はあんまりないんじゃないかな。やっぱり原稿を見る目ってあるでしょう。

阿川 実際、『若き数学者のアメリカ』一作で終わらなかったわけですからね。藤原さんも、書くことにだんだん積極的な興味を持ち始めましたか?

藤原 ええ、数学の合間に随筆を書くようになって、今に至ります。でも当初は、私の大学院の同級生で東女(トンジョ)の助教授をやっていた男に、「藤原、もうそろそろ白状しろよ。親父さんに書いてもらったんだろ?」って(会場笑)。「おまえに文章書けるわけねえじゃねえか。自分で書いてるようなふりするのも苦しいだろ? そろそろ白状した方が楽になるぞ」なんて。でも、父がその後二年して亡くなり、その後も私が書いているのを見て、やっと信用してくれました。
 確かに、私の文体は父の文体に似ているんです。それで余計に、父が書いているという疑惑を持たれたんでしょうね。私は、父の文章をよく読んでいましたから、文体が似てしまったんです。というのは――父は母にまず原稿を読んでもらっていたんですよ。

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 藤原ていさんはご自分も書かれるし、だいたい奥さんはご亭主に点がカラいでしょう?

藤原 そうなんですよ、もうめちゃくちゃ。「何よ、この下手な小学生の作文みたいなの」とか「この三文作家」とか(会場笑)。

 それは、まだ新潮社に突き返されていた頃?

藤原 とんでもない、直木賞を獲った後です。母が子育てとかで原稿を書く時間がなくなって、物書きの精神上、何かたまっていたこともあったのでしょう。父もついに怒り始めて、「おまえにはもう一切読まさん」。それで、小説はまず編集者に見せることにし、随筆は私がまず読むようになったんです。そしたら、文章って伝染性があるんですよ。特に文章のリズムがうつってくる。私の文章は「門前の小僧習わぬ経を読む」になっちゃった。

父の文章教室

阿川 書き始めてから、改めてお父さまの文章について感じるところはおありでしたか?

藤原 自然の描写ですね。例えば山の描写の美しさなんて、これは今もとても父にかないません。父はよく私に「おまえに自然描写はできないよ。植生に弱過ぎる」と言っていました。私、花の名前はチューリップとバラとユリとヒマワリぐらいしか知らなかったから、自然描写ができない(会場笑)。花、鳥、樹木、雲、地形、そういうことに父は詳しかった。

 何ていうのかな、その人の持っている愛とか目とかが物を書かせるんだと思うんです。お父さまの強みはそこですよね。

藤原 そうだと思います。そこが私は弱いんですよね。数学者っていうのは物事の本質以外、一切興味がないのです。ほかのものは全部捨てて、本質だけに肉薄するのが数学者です。ところが、小説は本質以外のものが重要。路傍の花が風にどうそよいでいるかとか、山に登っていたら岩の陰からコマクサがのぞいていたとか、そんな描写がすごく大事でしょう? 私がやってきたこととまるで正反対なんです。

阿川 文章を書く仕事を続ける以上、藤原さんはそこを鍛えようとなさったんですか?

藤原 二十年ほど前に俳句を始めて以来、やっと花鳥風月へ目が行くようになりました。日本固有の植物、動物、気象、ほとんどが季語ですからね。俳句を齧ったせいで、数学を長くやり過ぎたなあと思ったり、父の文章を改めて凄いなと思ったりしています。

 佐和子さんのお父さまも名文家でいらっしゃいましたが......。

阿川 私は不肖の娘で、阿川弘之の本をロクに読んでいないので、そこは答えようもないのですが、実は藤原さんのある作品が新潮文庫になる時に解説を書いたことがあるんです。

藤原 はい。あの時はお世話になりました。

阿川 いえ、ご迷惑をおかけしたという話で......その解説には、どれほど私が藤原さんの文章が好きで、素晴らしいと思っているかということを力を込めて、ずいぶん長く書いたんですね。その文庫が出た時、藤原さんの作品が好きなものだから、父の目に留まっちゃったんです。そしたら、ごくたまには「おまえもまあまあうまくなったもんだ」とか薄っすら褒めてくれたこともあったのに、「あの解説は本当に面白くなかった。だらだら長いのは知ってること、調べたことを書きすぎるからだ」とバッサリ言われました。力を入れて書いていることを外に出しちゃダメだということなんでしょうね。本当に面白くない解説で申し訳ありませんでした(会場笑)。

藤原 とんでもない、素晴らしい解説に感謝しています。

阿川 褒めるより、ダメなところを指摘する方が父は得意だったみたいで、その解説以外でも、「こういう形容詞はこういう箇所で使うものじゃない」とか「語尾が、だった、だった、だった、って安物の機関銃みたいになってる」とか。

 すごく具体的で、役に立ついいアドバイスじゃない。

阿川 まあ、そうですけどね。小説を書き始めて間もなくの頃、ちょうど私の小説と父のエッセイ集がほぼ同時に出たもので、『徹子の部屋』に親子で出てくださいとなったんです。父とはその前に、「おまえが小説を書き始めたのは知っているが、エッセイは文章指導できるけれども、さすがに娘の恋愛小説まで読む気にはなれないから、すまないが読まないからな」「あ、もう結構でございます、どうぞ読まないでください」というやり取りがありました。
 それが『徹子の部屋』の収録に行ったら、控え室で父が「おまえの小説を俺は読まないと言ったけれども、番組のホステスの黒柳徹子さんが娘の本を読んでくださるのに、父親が『読んでません』と言うのは黒柳さんに失礼だと思うから、読んできた」。さあ、これから収録って時に、その読んだ本を見せられたら、本が厚くなってないかと思うくらい、付箋がいっぱいつけられているの。「直すところがこれだけある。だが、今それをおまえに言うと、きっと落ち込むだろうから、収録の後にしよう」。後も何も、そう言われただけで十分落ち込むんですけど、父ちゃん(会場笑)。

 結局、その一つ一つを指摘されたんですか。

阿川 収録が終わってから、みっちりと。あるエッセイ集を出した時も電話がかかってきて、「直さないといけないところがあるから、ちょっとうちに帰ってきなさい」。ちょっと忙しかったものだから、「すみません、電話でなんとか済まないですかね」「電話で済まされる量じゃない」(会場笑)。実家へ帰ってみたら、四十何箇所ぐらいチェックがされていて、「三ページの十四行目、ここの形容詞の使い方は」とか、たっぷりやられました。

 これは文士の被害者じゃないですよね。

藤原 そうですよ。羨ましい。

 すごい愛情だし、英才教育。

父の薦める結婚相手

阿川 おそらく父にしたら、文章のことしか親として教えられることが何もないと思ったからでしょうし、あとは「あの文士の娘はこんなひどい文章を書いている」と言われるのが自分の恥だと思っていたんじゃないかな。

 それはやっぱり、あなたの今後を考えていたのよ。

阿川 今後?

 今後というか、ちゃんと作家としてやっていってもらいたいという願いはおありだったんじゃない?

阿川 あなたはどうだったの?

 うちの父は死んじゃったから。

阿川 あ、娘が公的に発表した文章をお読みになる機会はなかったんですか。

 ないんです。文章について言われたのは一度だけ、あるタレントさんが書いたものを父が読んで、それを私に見せながら、「こういういい加減なものを書いちゃいけません。書くんだったら一生懸命書きなさい」と言われたことがあるだけです。父は、女優としての私の仕事も一切見ていないし。

阿川 見てらっしゃらないの、勧めるだけ勧めといて? 高倉健さんとのデビュー作も?

 全然見てないの。唯一、NHKで『連想ゲーム』という番組に私が出ておりまして、それだけは父も家族と一緒に見たりはしていました。

阿川 (会場に向かって)『連想ゲーム』ご存じかしら、皆さん?

藤原 あれは日本中が見ていました。檀さんが頭の回転の速さを毎週見せる番組で。私も家族と見ていて檀さんの切れ味に舌を巻いていました。

 あの頃はちゃんと頭が回っていたの。今はもう全然で、「あれ」と「それ」だけで生きております。
 思い返すと、父は私のことを真面目過ぎると思っていたのかもしれません。高校生の頃は、本気で真面目に毎晩、世界の平和をお祈りして......。

阿川 へ、何教なの?

 何教ってこともないけど、夜寝る前に、家族の健康とか幸せとか、世の中が平和でありますようにみたいなことをお祈りするような子だったの。それを父がチラッと見たらしくて、「あの子は一体何になるつもりかね。宗教家にでもなるつもりかね」と心配してたって。

阿川 そう思うわよね。例えば、曲がったこととか、ズルするような人は許せなかったの?

 そういうことではなくて、なんかこう、心が清らかっていうの?

藤原 ふふふふ。

阿川 今日は自慢する人しかいないんですか!(会場笑)

 他人が何をやってもいいんだけども、とにかくお祈りをすると気持ちがよくなる、そういう子だったんですね。だから、父がとても心配して。

阿川 お宅はクリスチャンの家系とかじゃないんでしょ? 宗派とかおありなの?

 うちは無頼派ですよ(会場笑)。父は「神も仏もあるものか」というクチですので、なんで自分の娘にこんなのができちゃったんだろうと気味が悪かったようです。一方では、娘は作家になるかもしれないってどこかで期待もしていて。

阿川 作家になりたいって言ったから。

 なりたいって言ったし、学校の成績も悪くなかったし、国語の成績は特によかったし。

阿川 まだ言うか!(会場笑)

 だから、父としては、「ひょっとしたら、これは作家になるかもしれないな」と内心思ってたと思うの。それが世界平和を祈るとか、そんな四角四面に生きていたら、絶対作家にはなれないだろうって無頼派としては考えたんじゃないですか? だから、「女優になれ」と言ったんだと思う。

阿川 作家になるには、世界平和を祈るより、ちょっと乱れた方がいいってお父さまは思ったのね。

 おそらく、そうじゃないかな。だって、父は「娘達への手紙」というエッセイの中で、「お前達の前途が、どうぞ、多難でありますように......。多難であればあるほど、実りは大きい」って書いているくらいですもの。それを読んで「おまえの父ちゃん、すごいな」と言う人もいたけど、私は「何、恰好つけちゃって」とか思ったわけ。無頼派っぽく、恰好つけてるよなあって。

藤原 でも、お父さんはふみさんに、「女優になっていろんな経験すれば、三十歳ぐらいになって、いいものが一つ書けるかもしれないよ」って言ったんですよね? つまり、それはいろんな、多難かもしれない経験を積めば、最後はいい物書きになれるだろうということですよね。

 ええ、たぶん父はそう言いたかったんだと思うんです。今、私が少し物を書くようになって思うのは、お二人もそうお考えだと思うけど、やっぱり書くってたいへんなことですよね。一旦書いたものって取り返しがつかないから、いい加減なことは書けないと思いません?

阿川 私はあんまり思ってないかな(笑)。

 私、昔は「娘達への手紙」で父は恰好つけてると思ったけど、「こう思っているんだ」と書くことはやっぱり本当に思っていないと書けないのだから......。

阿川 それが、いい加減なことは書けない、ってこと?

 つまり、私なんかつまらないものしか書けていないけれども、書くというのはちょっと魂を乗せることだろう、って感じているの。何かを書くと、私が書いたなりに〈言霊(ことだま)〉みたいなものをほんの少しだけは感じるんですよ。だから、思ってもいないことは書けないし、父はもっとそう感じていただろうから、「多難でありますように」と書いた時は、本当に娘には多難が必要だと信じていたに違いないと思うの。

阿川 「お父さん、ちょっと不倫してきました」なんて報告したら、「おお、でかした」って仰ったかもよ。

 わかんない、言ったことがないからね(会場笑)。でも、「何をやってもかまわない」とは私に常々言っていました。娘が泥棒するのは許さなかっただろうけど、「泥棒と結婚してもいいね」って。

藤原 やっぱり檀一雄さんってすごい人だなあと、今の話を伺ってて思いましたね。娘に「多難でありますように」とか「泥棒と結婚してもいいね」なんて言えるのは天才ですよ。

アガワは手抜きをしているか?

阿川 うちの父は私よりも数倍律儀で、まあダメ人間なところはありましたが、真面目で、外に向かっては「いい人」と思われたいという気持ちがすごく強い人間だったから、自分の文章に対しても厳しかったと思います。で、私が「週刊文春」でエッセイの連載を三年続けて、四年目に入ったら、もう書くことがなくなったんですね。友達のバカ話も自分のドジ話も家族のことも書いて、あれもこれも書いたと思ったら、本当に書くことがなくなって、それこそさっき話に出たみたいに、書けなくなったから転地療法したんです。

藤原 どちらへ?

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阿川 アメリカのワシントンD.C.へしばらく行ってみたんです。外国に行って新しい経験をすればネタが増えるだろうという気持ちがあったんですが、言葉の不自由な状態で行ったわけです。そうすると、日常生活で「Hi, how are you, Sawako? What did you do yesterday?」なんて言われても、「アイ、ウエント、トゥ、ザ、ビッグフォール、アンド、イトワズ、ベリービューティフル」なんて英語しか出てこなかったんですね。すると、オソロシイことに文章がそんな会話と同じレベルになっちゃったの。感じることや見ることは言語能力に比例するんですね。日本語でも「昨日は大きな滝に行って、とても美しかったです」みたいな文章しか書けなくなった。とりあえず目新しい経験は豊富にしているくせに、文章から深みも味も熱も全然なくなって、編集部から「最近面白くない」って言われて泣いたんですよ。

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藤原 思考や情緒の深さが言語能力に関わっている、というのは素晴らしい発見でしたね。でも、思い切って面白くないと言ってくれた編集者は立派です。

阿川 そう思いますけど、すごく悩みました。そんなとき、たまたま父とハワイで落ち合ったんです。私、父に人生で二回しか優しくされた記憶がないんですよ。
 一回目は小学校の頃、ちょっと友達にいじめられていた時に、「おまえが毎日学校へ行っては泣いて帰ってくると母さんから聞いている。それはいろいろつらいことがあるだろうけれども、俺も柴田錬三郎のおじちゃんとか吉行淳之介のおじちゃんとか、みんなにいじめられてつらい思いをしている。おまえもつらいだろうけども、お父さんもつらい思いをしているんだから我慢しなさい」って慰めてくれた。父が吉行さんとかにいじめられているって言っても、バクチで負けていただけらしいですけどね(会場笑)。
img_202001_10_5.jpg 二回目がこの時で、「エッセイが書けない。書いても面白くないって言われる」って父に愚痴を言ったら、「まあ、そういう時はあるよ。書けないときは書けないから、仕方がないんだ。その書けない時が大切なんだと志賀先生も仰ってた。しばらく経ったらまた書ける時が来るから、それまではまあ、三割でいいよ。読者には悪いが、三割しか書けない時は書けないんだ」と言われて、すごくホッとしたんです。人生でたった二回だけ、父に優しくされた。

 もうちょっとあると思うけど。

阿川 ない。

藤原 断言が素早い(会場笑)。うちの父は違う教えだったんですよ。私は「週刊新潮」を十年間連載しまして、毎週毎週三枚半を約五百回書きました。三枚半でも毎回、全力を尽くしたんです。これは、そういうふうに父に教わったからなんですよね。父曰く、「ライオンはウサギを殺す時も全力で殺すんだ」と。要するに、作家というのは、どんな短い原稿でも手を抜かず、必死になって書けと。そうしないと、ひとつ駄作を書いただけでも読者や編集者にそっぽを向かれるかもしれない、それで作家生命は終わるかもしれないんだ......この教えが父からの一番の被害だったかもしれないです。

阿川 わが家はゆるい教えで、どうもすみませんね(会場笑)。藤原さんは、一回も手を抜いたなと思ったことはないの?

藤原 全篇全力で書いたから、傑作だらけになっちゃった(会場笑)。だけど、数年前に亡くなった岩橋邦枝さんに「週刊誌の連載を長い間本気で書いていると、必ずガンになります。だけど風邪は引きません」と言われたんですね。確かに十年連載して風邪を一度も引かなかった。だから、そろそろガンになる頃だなと思って連載をやめたんですが、やっぱり、どこかで手を抜くことは覚えた方がいいでしょうね。「週刊文春」の阿川さんの対談はもうずいぶん長くやっているでしょう?

阿川 手を抜いているって仰りたいの?(会場笑)

藤原 お父さまが三割って教えてくれたように、長嶋だって、十回打席に立ってヒットはせいぜい三本で、あとは凡打でしょ?

阿川 十回のうち十本打ってたら体を壊しますよね。

藤原 父は、体を壊してもいいから、全力を尽くせと言ったわけです。この教えを有言実行した父は六十七歳で亡くなったし、私は長く週刊誌の仕事をして、しんどい目に遭いました。例えばその間、愛人と夢のエーゲ海クルーズにも行けなかった(会場笑)。数学でも手を抜かなかったし、生来の不器用なんです。うまく手を抜くのにも才能が必要だと思う。

 才能、必要ですよ。阿川さんを見てそう思います。

藤原 だって阿川さんはダ・ヴィンチみたいに多芸多才じゃないですか。小説、エッセイ、対談、司会、女優、みんなやって、みんな全力だったら、すぐ倒れますよ。

阿川 私が手抜きをしている方向へ持って行きたいみたいですが(会場笑)、あらゆるところに力入れたら、着心地が悪い服ができるんですって。イタリアの服がすごく着心地がいいのは、あちこちいい加減に縫ってあるのに、あるポイントだけはピシッと決まってたりするからだって話を聞いたことがあります。

藤原 そうか、なるほど。そこは無意識にせよ、やはり才能の領域ですね。

文士の子どもができる親孝行

 さきほども話しましたが、文章上のことで父から教わったのはたった一つ、「書くのだったら一生懸命書きなさい」ということでした。それから間もなく、親孝行もしないうちに父は亡くなってしまった。
 最初はどうしていいかわからなかったけど、死後にできる親孝行は何かと言ったら、たった一つ、文章を書くことではないかとだんだん思うようになったんですね。父は娘が作家になることを少し期待していたところもあるから、私は「文章を書け」と言われたら断らずに書こうと決めていたら、実際に文章の仕事を頼まれた。書くとなると、父の教えのように、一生懸命書かなくてはいけない。その「一生懸命」って何だろうと考えて、未だによくわかっていませんけど。とにかく、依頼された字数をきっちり合わせることはしました(会場笑)。

阿川 そこは確かにアナタ、真面目よね。

 最初はまだ原稿用紙の時代だったから、きれいに字を書く。誤字脱字はないようにする。ところが、締切りに間に合わせるってことだけが......。

阿川 締切りには全然一生懸命じゃないんですよ、この人。

 ないです、はい。

阿川 逃げるらしいんですよ。

藤原 無頼派の血ですか?

 書けないから、というだけです。

阿川 電話を通じなくさせちゃったりするんです。野坂昭如さんじゃないんだから。

 阿川さんに「書けないときはどうする?」って聞いたら、「すぐ編集者に電話する」って。それで「『ダメ、書けないんだけど、あの、ど、どう? ギリギリいつまで?』みたいなことを言うの。そうするだけでも気が楽になるから」と教わりました。

阿川 編集の方に聞くと、連絡がつかなくなる筆者が一番困るらしいですよ。

 だから阿川さんに伺って、「ああ、そういう手もあるのか」と初めて知って、電話するようにしてからすごく楽になりました。編集者からもありがたく思われているみたいだし。

阿川 書けない連絡なんだから、正確には、ありがたくは思われてないと思うよ。

藤原 お二人はパソコンで執筆してますか?

阿川・檀 今はパソコン。

阿川 あら、今でも手書きですか?

藤原 僕は機械に対してコンプレックスを持っていまして、ワープロもパソコンもスマホも使えないんです。カメラも写せないし、ビデオも動かせない。

阿川 数学者なのに?

藤原 数学者は機械がダメな人が多い。戦後すぐに亡くなったケンブリッジのハーディって大教授は電話が使えないので使いを走らせ、万年筆さえ使えないので羽根ペンを使っていたそうです。私の恩師であるコロラド大学のシュミット先生はパソコンを繋いでいるとメールが来るからと、電源を抜いていました。私は、電源を抜いてもメールは情け容赦なく来ることくらいは知っています(会場笑)。

 数学って機械でやる感じじゃないですもんね。

藤原 私などは抽象的なことをじっと鼻毛でも抜きながら考えているだけです。鼻毛を抜くのは脳に刺激を与えるためです。それでもうまく考えがまとまらないと、知らないうちに鼻毛のことを考えたりしています。鼻毛って、一本抜いても二本抜いても平気だけど、三本以上同時に抜くと痛みで涙が出てくる。右の鼻の穴から抜くと涙は右目だけから出てきます。左目からは出てこない。やってごらんなさい。

阿川 やんないです、そんなこと(会場笑)。
 結局、今日の文士の子どもたちはあまり被害に遭ってないっていう結論でしょうか?

 私は遭ってきましたよ、すごく。

藤原 被害には三人とも遭ってきたけど、書くことに対してのバリアを低くしてもらったとは思いますね。だから、みんな重大な内省や覚悟もせずに、普通のこととして自然に書き始めたでしょう? そこは被害じゃなく、利点ですよね。

 書いたおかげで、自分の頭や心の中に残せたことってたくさんあるから、父のおかげで書くようになったのはよかったです。あと、やはり父のおかげで女優の道へ進んだのも、ほかの道もよかったかもしれないけど、まあよかったかなと思ってはいますね。

阿川 今からもうちょっと一生懸命書こうと思ってますか?

 量のこと? それはあんまり思っていないかな。でも、もう少しちゃんと書かなきゃな、という気持ちはあるんです。というのは、「一生懸命」って何かをまだ掴めていないんですね。父の言う「一生懸命書きなさい」って、「一生懸命生きなさい」ってことかもしれない。硬い言い方だけど、いろんなことをやりなさい、いろんな経験しなさい、そこから雫のように落ちてきたものを文章にしなさい。そうは思うけれども、いろんな経験のほうを――ほら、結婚もしてないし。

阿川 どうぞして下さい。

 不倫もしてないし。

阿川 どうぞして下さい。お父さまに報告して喜んでもらわなきゃ(会場笑)。

 瀬戸内寂聴さんに「あなたはまだまだです」とか言われちゃったしなあ......。

阿川 今から寂聴さんに追いつくのはちょっと難しいかもね。

 うん。私のほうが尼みたいな感じがしてる(会場笑)。そういう意味で、父の期待ほど一生懸命書いていないと思う。

阿川 これは今日の前半で訊くことかもしれませんが、世間一般の考え方でいくと、檀さんのお父さまは火宅の方(かた)でしたよね。

 はい。

阿川 でも、火宅だったということでお父さまを憎んだりはないんでしょう?

 あ、ないです。

阿川 おうちではお父さまはちゃんと「父親」という役割をやっていらしたから、ふみさんは尊敬してらっしゃる。けれども、そのお父さまの奔放、無頼ってものへの反動、というところは何かあるんでしょうか?

 つまり、私がこれだけ生真面目で、きちっとしているのは父への反動だと。

阿川 自分で生真面目っていうかね?(会場笑) あれもこれも経験してみようという気概が、お父さまよりは少ないというか。

 ああ、そこは母が私をこうしたんですね。

阿川 性格はお母さまと似てるんですか?

 いえ、母に、私が父と似ている部分を全部チョキチョキ剪定(せんてい)されたんですよ。

阿川 じゃあ、本当はあれもこれもやろうと思ったことはある?

 それはあったでしょう、多分。それを母にあれもダメ、これもダメ、これはいい、という教育を受けて、なんとなくこうなっちゃったの。母の教育が素晴らしかったんですよ。

阿川 はい、ではそろそろ終わりましょうか。お二人とも、もう言い残した自慢話はありませんか?

藤原 お二人の話は感動的で、内容も豊かでしたが、私はどうもくだらない話ばかりで......でも、自慢話をするのはストレス発散になるからガンの予防にいいですよ。だから、みなさんも文士の子どもを見倣って、どんどん自慢なさってください(会場笑)。

阿川 今日もいろんな話が登場しましたが、「文士も変人ばかりだけど、文士の子どもたちもそうとうに変だ」というのが私の結論でございました(会場笑)。

 (ふじわら・まさひこ 新田次郎次男)
 (だん・ふみ 檀一雄長女)
 (あがわ・さわこ 阿川弘之長女)

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