インタビュー

2019年10月号掲載

特別インタビュー

村上春樹を翻訳するときに翻訳者が夢見ること

メッテ・ホルム、辛島デイヴィッド

村上春樹作品を20年以上デンマーク語に翻訳している翻訳者メッテ・ホルムさんの姿に密着した異色のドキュメンタリー・フィルム『ドリーミング村上春樹』が公開される。デンマークで出版された村上作品はほぼすべてメッテさんの翻訳によるものだ。来日を機に話を聞いた。
聞き手は辛島デイヴィットさん。

辛島 メッテさんが村上春樹のデビュー作である『風の歌を聴け』を日本語から翻訳する姿に密着した映画が日本で公開されます。世界中で配給される映画の主題になる気分はどんなものですか?

メッテ 最初は断わったんです。翻訳というのはとても私的な作業だし、撮影されるのが好きというわけでもないから。でもムラカミの作品をずっと愛読してきたニテーシュ・アンジャーン(監督)の熱意に負けたという感じ。誰が翻訳者の映画なんて見るのかしらと思ったけど、私が日本に滞在する機会があって、ムラカミと縁の深い神戸や東京といった土地を旅する間、監督やカメラマンたちもついてきてカメラを回したし、私の娘や夫たちにもインタビューしたりして、結局百二十時間くらいのフィルムが残ったそうです。そのほかにもムラカミの「かえるくん、東京を救う」のかえるくんの映像をCGで作ったりして、一体どんな映画を作ろうとしているのか私にはさっぱりわからなかった。私がムラカミの書いた言葉ひとつひとつを翻訳する姿が、まるで夢を見る人のようで、その姿をフィルムに収めたかったのかもしれません。映画がアムステルダムの映画祭ではじめて上映されると、とても好評だったみたいで驚いちゃった。孤独を感じている若い人に響く何かががあったようです。ほんとに無計画な撮影だったんだけど(笑)。

辛島 編集作業はかなり大変だったでしょうね。

メッテ 監督は本当に長い、長い時間を編集作業に費やしたと思います。かえるくんがしゃべる幻想的なシーンがあるんだけど、彼に何を語らせるか、よく考えなくてはならなかっただろうし......。でも、翻訳が大切な仕事なんだと共感してもらえたり、その実像を知ってもらえれば嬉しいです。ムラカミが映画を気に入ったかどうかはわからないけれど(笑)。私にとって彼の作品を翻訳することは喜びだし、人生の大きな一部なんです。

辛島 メッテさんが村上春樹の作品をはじめて翻訳したのが2001年、『ねじまき鳥クロニクル』ですね。

メッテ 翻訳に着手したのはたしか一九九九年だったと思う。翻訳って本当に時間のかかる作業なの。ただでさえ私は仕事が遅いし、昔は辞書と手書きの作業だったし、当時はインターネットも今ほど便利ではなかったしね。それなのに翻訳料は安いんだから困ったものです。一冊の本を翻訳する間はあまりほかの本を読みたくないし、人に会わず、出かけることもない孤独な時間を必要とする仕事です。

辛島 村田沙耶香さんの『コンビニ人間』もデンマーク語に翻訳されていますが、文芸翻訳はコンビニで働くより大変かもしれませんね(笑)。

メッテ ほんとにそう! いまは川上弘美さんの本を翻訳しているんですが、ほんとにむずかしくて時間がかかります。『コンビニ人間』の翻訳はそれほどむずかしくありませんでした。現代的な物語だから。ほかにも三十年近く映画の字幕翻訳もやっていて、デンマークで公開された黒澤映画と宮崎アニメの字幕翻訳はすべて私が手がけています。最近では是枝裕和の『万引き家族』の字幕も翻訳しました。

翻訳に間違いはつきもの

辛島 映画ではあなたの子どもの頃のことも語られています。

メッテ 私はデンマークで生まれましたが、フランスに住んでいた時期もあって、小説を読むにしても、人と話すにしても、二つの言葉を使い分けることになりました。そうするといつも後悔ばかりすることになるの。「あの時はこう翻訳したけど、別の言葉を選べばよかった」ってね。翻訳というのは常にそういうものよね。終わりがない。それはどの国の言葉を翻訳するのでも同じだと思います。

辛島 映画でも登場していましたが、翻訳するにあたって、ほかの国の翻訳者と相談したり、翻訳をお互いチェックしたりするんですね。

メッテ 翻訳者仲間とはさまざまなことを協力します。時にお互いの訳文で着想を与え合うこともあります。ムラカミの言葉には多くの遊びが含まれているので、翻訳者同士で話し合うことで、よりよい訳文が生まれます。読みやすい文章を作らないといけないので、そういったコラボレーションは絶対に欠かせません。だって、ムラカミの文章は......とても読みやすいものよね?

辛島 そう思います。少なくとも、表面的にはとても。

メッテ 他の翻訳者の訳文を読むことで、自分の間違いに気づくこともあります。『騎士団長殺し』の翻訳では、オランダ語版が先に出ていたので参考にできました。

辛島 翻訳には間違いがつきものですよね。ちなみにぼくはいま、すでに出版した自分の原稿を英訳して、それをずっと直し続けています(笑)。

メッテ 字幕翻訳の先生には、ディテールこそ大事だと教わりました。細部を間違えると、全体を疑われてしまうから。まだインターネットのない頃に大江健三郎の作品を翻訳したことがあって、植物や魚の名前がたくさん出てきて大変でした。博物館や植物園まで出かけて調べたのを覚えています。

辛島 『ねじまき鳥クロニクル』を翻訳したのも、まだそれほどインターネットが便利だった時代ではないですね。

メッテ とても長い作品なので苦労しました。作家が作品に埋め込んださまざまなスタイルやヴォイスをとらえないといけないし、永遠に終わらないんじゃないかしらと思った。『ねじまき鳥』の一部を独立させて書かれた『国境の南、太陽の西』は私が一番好きな作品のひとつなんだけど、『ねじまき鳥』の翻訳があまりに進まないから、編集者がほかの翻訳者に依頼してしまったの。でも彼が英語版から翻訳していたのは明らかだったから、私は日本語の原文の一部を翻訳して編集者に渡して、どちらがいいか選んでもらった。それからは私がムラカミの作品をすべて翻訳できるようになりました。

変わったことと変わらないこと

辛島 村上春樹の作品を翻訳し始めてから二〇年経つわけですが、作品や作家との関係は変化するものですか。

メッテ ムラカミは四〇年のキャリアのなかで、作品の書き方を少しずつ変えてきた作家だと思います。それでもやっぱり少しずつ彼の世界に慣れてきたし、ずいぶん楽になりました。翻訳にかかる時間が短くなったわけではないけれど。慎重さを要する仕事であることに変わりはないから。出版されるテキストは「翻訳」ではなく、それそのもので完結したテキストでなくてはいけないと思う。

辛島 『騎士団長殺し』を翻訳したあとに、彼の初期作品である『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』を翻訳して、どんな感じを受けましたか。

メッテ その二作はバーンバウムの英訳があったのですが、翻訳するにあたって改めて日本語の原文で読んでみて驚きました。ムラカミがこれまでに書いてきたことがすでに最初からそこにあった。すべてが最初から、そこにあったんです。それは本当に興味深いことだった。

辛島 超現実的な要素もはじめからあるし、ユーモアもありますね。変わってきた部分についてはどう感じていますか。

メッテ シンプルで直接的(ダイレクト)になってきたんじゃないかしら。最新作の『騎士団長殺し』はムラカミがレイモンド・チャンドラーの作品を翻訳してきたことにインスパイアされていると思うけど、自然の描写や街の描写はチャンドラーみたいよね。登場人物のしゃべり方も。私もチャンドラーの作品が好きだから、翻訳していて楽しかった。はっきりと「父親」というものを描いていることや、一人称が「僕」から「私」に変化して、物語が成熟した感じを受けたことも印象的だった。登場人物の話し方を翻訳するのはとてもむずかしいんです。たとえば川上未映子さんの作品には大阪弁で話す人物が出てくるけど、方言や訛りを翻訳するのはいつも悩ましい。デンマーク語の方言にするのは変だと思うから、言葉の選び方で表現するのがいいと思っているけど、あなたはどうしてるの?

辛島 ぼくも基本的には日本語の方言をどこか特定の地域の方言に置き換えることはしません。イギリスのワークショップで川上さんとそのことを話したことがあります。マンチェスター出身の翻訳者が来ていて、マンチェスター方言で川上さんの文章を翻訳してみせてくれました。遊びとしてはとても面白いんですが、出版して残す作品となると個人的には別の方法をとると思います。

日本文学はもっと世界で読まれるか

メッテ どの作品を翻訳するかは出版社が決めることだけど、多和田葉子、村田沙耶香や川上弘美、東野圭吾、吉本ばなな、村上龍、大江健三郎など、私が翻訳してきた作家たちはみんなちがうヴォイスを持っています。だから、結果として生まれた翻訳が文体が同じになったりしないよう気をつけています。いつか谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』や『刺青』を翻訳したいんだけど。

辛島 自分で作家を発見してみたいと思ったことはありますか?

メッテ そうね、いつか自分だけの作家を発見してみたいけど、今は日本に滞在していて、そこらじゅうに本があって大変です。最近、今村夏子の『むらさきのスカートの女』を読んだけど、とても面白かった。

辛島 日本では今村さんのほか、村田沙耶香さん、本谷有希子さん、小山田浩子さん、松田青子さんなど若い女性作家がとてもいい作品を書いていて、海外で翻訳されはじめています。

メッテ ある作家の作品をはじめて翻訳を始めるのはとても大変です。

辛島 翻訳者はみんなそう言いますね。翻訳している時間の九〇パーセントは、その作家のヴォイスをつかまえるのに費やすという人もいました。

メッテ もっとデンマークで日本文学が読まれるといいなと思うけど、なかなか翻訳者が増えないし、金銭面でもまだまだ公立図書館や国の助成が必要です。出版しようという編集者の数もそれほど増えていません。私はもう十年以上も同じ編集者と仕事をしていて、いつも翻訳料とか締切のことなんかで喧嘩ばかりしていますが(笑)、日本語が読めるわけではないから、編集者に渡す前にいつもたくさんの友人に読んでもらっています。デンマークでは翻訳者の地位は少しずつ向上していますが、それでも多くの人の協力なしには文芸翻訳はできません。

 (メッテ・ホルム 日本語翻訳家)
 (からしま・デイヴィッド 作家/翻訳家)

●映画は2019年10月19日より新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国ロードショー

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