書評

2019年9月号掲載

むごい筆だけど

瀬戸内寂聴『命あれば』

田中慎弥

対象書籍名:『命あれば』
対象著者:瀬戸内寂聴
対象書籍ISBN:978-4-10-114446-7

 収められているのは新聞にいまも連載中の随筆のうち、1997年から2016年までのもの。世紀をまたいでなお、作家は様々なことに興味を向け、時には各分野で活躍する人たちを応援し、寿ぎもするが、いまを生きる日本人、人類への嘆きや落胆の方にこそ重みがある。瀬戸内さんほどのキャリアがあれば、時代や国家や為政者には目もくれず、世界がどうなろうが、自らの小説の道をひたすらストイックに進めばいいだけなのに、と私などは思ってしまう。瀬戸内さん、どうか小説のみに力を注いで下さい、と。
 だが、この随筆集に書かれてあるように世の中を全方位的に見つめ、時に有罪判決を受けた人物と向き合ったり、時にはまた犯罪被害者支援の活動もする、といった多面性こそが、瀬戸内さんを僧侶としてだけでなく作家たらしめてきたのだろう。
「川端康成氏が『美しい日本』と自慢した日本の自然も人も、今や風前の灯だというのは言い過ぎだろうか。」「今、人々は目に見えないものへの畏敬を失っている。その為、どんな浅ましい偽りを犯しても恐れも恥も感じない不感症な怪物に、人間を変えてしまったのである。」といった現代への批判に対しては、いえいえ、人間はまだまだ捨てたものでもないと思いますが、と私は小声で反論したくもなるのだが、ではそういう自分自身が、現代にあっていったいどれほどのことをしてきたのかと省みれば、黙るしかない。
 本は読者に届いてこそ大きな意味を持つ。だから、ここに展開される現代批判は、この随筆集を読む一人一人に突きつけられたもの、ということになる。一見すると大物作家が気ままに書き綴った、と思えなくもなく、勿論そういった要素もここにはあるのだろうが、だからといって読んだ方も、さすがは瀬戸内さん、なかなかいいこと仰いますな、などと悠長に構えている場合ではない。瀬戸内さんにこれ以上耳が痛いことを言われないように、懸命に各々の仕事をしてゆかなければならない。この私自身も。
 全六章のうち第三章「なつかしい人たちの俤」を、作家として興味深く読んだ。宇野千代、水上勉といった文豪が次々に登場する。作家というものは小説を書いてナンボ、作品こそ全てであり、作家本人がどんな人物であったかはどうでもいい、と私は日頃思うことにしているのだが、それは、ともすると作品よりも作家の人生の方に興味を引きずられそうになることへの戒めだ。瀬戸内さんしか知り得ないようなエピソードも出てくるから、よけいによからぬ興味をかき立てられてしまう。
 特に大庭みな子が亡くなった時の話などは、こんなこと書いちゃっていいのか、と読んでいるこちらが焦る。瀬戸内さんの筆は、冷酷なまでにその場面を描写してみせるのだ。他の作家には真似の出来ないやり方であり、書くということの、そして書かれるということの残酷さを見せつける。たとえ思い出話に過ぎないのだとしても、作家が作家を描く時、懐かしさや悲しみを踏み越えて、作家のなんたるかを暴かずにはおかない。いなくなってしまった人たちの生前の姿を生き残った作家が書く、そのことへの批判もあるだろう。死者は生きて書く作家の筆を止めようがない。むごい筆だとも言える。それは、長命を保ってなお現役であり続ける作家の宿命みたいなものだろうか。私は自分が九十歳を過ぎて書き続けることを、ほとんど想像出来ない。そういう時がもし来るのなら、こんなこと書いちゃって大丈夫ですか、と遠い後輩たちから思われてしまうようなものを、果して書くのか、書かないのか。
 ところで第六章の中に登場する「新しい男友だち」というのは私のことである。自分の書いた掌編集に対し、「『やられた!』と私はうなった。」と書いて下さり、こちらとしてはしてやったりだが、私の本などに刺激を受けてか、瀬戸内さんはその後、掌編集『求愛』を刊行されている。生きながらにしてむごい筆のエジキに、私はされてしまったのか。戦(おのの)いている暇はない。大先輩をさらにうならせるものを、立ち止らずに書かねばならない。

 (たなか・しんや 作家)

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