インタビュー

2019年8月号掲載

『カリ・モーラ』(新潮文庫)刊行記念特集

猟奇の観察者 トマス・ハリス インタビュー

アレクサンドラ・オルター  高見浩 訳

トマス・ハリス

四十年以上インタビューを拒んできた『羊たちの沈黙』『ハンニバル』の巨匠が、ついに口を開く。
新たな傑作『カリ・モーラ』誕生秘話、そして怪物ハンニバル・レクター博士の復活について!

対象書籍名:『カリ・モーラ』(新潮文庫)
対象著者:トマス・ハリス著/高見浩訳
対象書籍ISBN:978-4-10-216710-6

 小説の世界を賑わせたきわめつきのモンスターの生みの親、トマス・ハリス。いま活躍中の作家たちの中で、彼くらい薄気味の悪い想像力の主はいないと見られたとしても不思議ではない。ハリスの生んだ悪名高き連続殺人犯ハンニバル・レクターは、犠牲者の内臓を念入りに調理したうえでむしゃむしゃ食べてしまう。一度などは生きたままの犠牲者の脳髄をとりだし、その切り身にトリュフをふりかけてからケッパーを添えて賞味したこともある。
 それくらいだから、当のハリスが、いや、自分は決して何か新しいアイデアを生み出したわけではない、と語るのを聞くと、どこか腑に落ちないものを感じる。
「わたしが、何か新奇なものを生み出したなんてことはないね」マイアミの七十九丁目コーズウェイを渡る車中で、ハリスはそう語るのだ。ビスケーン湾を横断するこの道路はバード・キーと呼ばれる小さな島を横目に走っているのだが、この島はハリスの新作『カリ・モーラ』のクライマックス・シーンの舞台でもある。「すべては現実に起きたことなんだ。わたしが考えついたことなど一つもない。いまの世の中、何かをむりにこしらえる必要なんかないんだよ」
 今年七十九歳になるハリスは、小説のプロットや登場人物の誕生の秘密について私がたずねるたびに、そのセリフ、ないし、それを若干言い替えたセリフで応じる。それは、私の予想していたどんな答えよりも奇異に響く。つまり、その答えに従えば、ハリスという作家はことさら猟奇的な想像力の主というわけではなく、ただ単に、人間とその陰惨至極な衝動の観察者にして記録者にすぎない、ということになるのだから。

 過去四十五年近くにわたって、ハリスは一連の不気味な小説で読者を震え上がらせてきた。総売り上げ部数五千万部を超えるそのシリーズは、小説史上忘れがたい悪漢の一人、ダース・ヴェイダーやドラキュラにもひけをとらない悪漢の一人を世に送りだした。が、その生みの親であるハリス本人やその創作のプロセスについては、これまであまり知られていない。それはハリスが、著者サイン会のような、自著のセールス・プロモーションのたぐいを一貫して忌避していることも一因だろう。それにハリスは、1970年代半ば以降、実質的なインタヴューにも一度として応じたことがない。すべては自分の作品に語らしめる、というのが彼の主義だからだ。
 この沈黙は、モンスターの背後にひそむ生みの親に対する大衆の興味をいやがうえにもつのらせてきた。ハリスの十三年ぶりの新作『カリ・モーラ』の最も驚くべき点は、したがって、ハリスがこの新作について喜んで語ろうとしているという事実ではないだろうか。
「人間というやつは、ときに自分をつくり直したくなるんだな」と、ハリスは語る。
 その言葉通り、『カリ・モーラ』はハリスの新たな出発を告げる作品となっている。1975年のデビュー作『ブラック サンデー』以来初めて、彼はハンニバル・レクターの登場しない作品を書き上げたのだ。と同時に、ハリスはここ三十年来暮らしてきた、第二の故郷とも言うべき街マイアミを、初めて作品の中心舞台に据えている。それによって、年来彼の頭に重くのしかかってきた、移民や避難民の苦難という問題をも掘り下げることができたのである。
 この新作のヒロイン、カリ・モーラは、南米コロンビアから移住した難民の一人で、マイアミ・ビーチにある、かつての"麻薬王"パブロ・エスコバルの遺した大邸宅の管理人として暮らしを立てている。その胸には常時、いま認められている一時的滞在許可がいつ移民局に取り消されはしないか、という不安がひそんでいる。そして、物語が幕をあけると、カリはその大邸宅の地下に隠された金塊を奪い合う二つの犯罪組織の争いに巻き込まれてしまうのだ。
「いまもときどき、ハンニバル・レクターが頭に浮かぶことがあるよ。どうしろと言ってるんだろうな、彼は、と思うこともある。でも、こんどの作品では、マイアミという街を正面から描きたかったんだ。そこで暮らす人々や、彼らが直面する争い。新たにこの街に渡ってくる人たちの夢と希望をね」ハリスは語る。「そこではだれもが、まったく別の人生を切り拓きたいと渇望しているのさ」

 ハリスと対面したのはよく晴れたむし暑い朝、場所はビスケーン湾に臨む動物保護センター、〈ペリカン・ハーバー・シーバード・ステーション〉の駐車場だった。そこはこんどの新作でも大きな役割を果たしている施設で、ヒロインのカリもそこで傷ついた鳥の介護にあたっている。
 自然愛好家のハリスは、過去二十年、ほぼ定期的にこのセンターを訪れてきた。そこにみなしごのリスや、傷ついたトキを持ち込んだり、そこで催される野生動物介護教室に参加したりもしている。この教室では、死んだフクロネズミを練習台にして、瀕死の動物に応急手当をする方法なども学ぶという。
 この日、ハリスはセンターの所長やスタッフと挨拶を交わし、先日見かけた傷ついた動物のその後についてたずねた。「あの日はね、ここでフクロネズミが眠っていたんだ」

 異常性格者や連続殺人犯の生みの親であるハリスが、実は病んだ動物たちを気遣うような人間だと知ったら、作品でしか彼を知らない者はだれしも呆気にとられるだろう。だが、素顔の彼を知る人間にとって、それは別段驚くようなことではない。
 めったに私生活を人目にさらすことのないハリスだが、J・D・サリンジャーやトマス・ピンチョンのような隠遁者タイプともちがう。余暇には絵を描いたり、手の込んだ料理をしたり、友人たちと夕食を楽しんだりする。自宅はマイアミ・ビーチの海際にあり、その庭先でのんびり寛いで、さまざまな動物たちの生態を観察してすごす。トキ、フクロネズミ、イグアナ、それにイルカやマナティーを目にすることも多い。夏場は長年のパートナーであるペイス・バーンズと共に、もう一軒の自宅のあるロング・アイランドのサグ・ハーバーですごす。
「いやぁ、いいやつだよ、彼は」と語るのは、親しい友人、マイアミ・デード警察殺人課の元刑事、デーヴィッド・リヴァーズだ。数十年来の付き合いだというリヴァーズは、ハリスの警察関連の取材なども手伝ってきたという。「ことさら自分を押し出すってことがないし、だれに対しても淡々としているね、トマスは」
 インタヴュー嫌いという評判の割りに、ハリスは実に物柔らかな、腰の低い態度で私に接してくれた。ざっと話し合った感じでは、とても読書好きで内向的な人物、という印象だ。会話には、スコット・フィッツジェラルド、ホラティウス、ソクラテス、パブロ・ネルーダ、エズラ・パウンド、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズといった名前がさりげなく出てくる。
 街頭でのハリスは、警戒心と紙一重の用心深さを発揮する。自分の背後を確認するために、携帯のディスプレイを鏡代わりに使ったりするのだ。昼食をとっているあいだ、ハリスは何度も肩越しに背後に目を走らせていた。そのうち一人のファンがハリスと気づいて、写真を撮らせていただいていいですか、と問いかけてきた。ハリスが快く応じると、その女性は叫んだ。「ねえ、みんな、クラリスって言ってみて!」それがすむと、隣りのテーブルの客たちはしんと黙り込んで、私とハリスの会話に聞き耳をたてはじめた。このときのハリスは写真撮影の頼みもむげに断らなかったが、できればその種のプライヴァシーの侵害は避けたいのが本音のようだ。「なまじ名前が売れると、面倒なことのほうが多いからね」と彼は言う。

 ハリスはたいてい、毎朝八時半ごろから仕事をはじめる。そして午後二時か三時ごろには切り上げて昼食をとり、昼寝をする。ときにはたった一行しか書けない日もある。とりわけ厄介なシーンで暗礁に乗り上げてしまったときは、手書きで書いたりする。
 書くという営みは受動的なプロセスに近いね、とハリスは言う。自分が主体的に書くというより、書く対象のほうが彼に降りてくるというのだ。まず、あるシーンが脳裡に浮かび、そこから物語がはじまる。ではそのシーンの前にいったい何があったのか。それを次に考え、ならばストーリーはどう展開していくだろうと頭をめぐらせる。ハリスは登場人物たちを、あたかもこの世に実在しているかのように語る――そう、彼の作品から離れて、パラレルに生きている人物たちであるかのように。
 仕事は遅々として捗らない。次の作品が出るまで十数年かかることもある。
「ときには文字通りうんうん唸って、汗をかくこともあるよ」と、ハリスは言う。「朝、仕事部屋にいってみると、そこにいるのは自分だけで、登場人物たちのだれ一人姿を現さない。仕方がない、そういうときは自分一人、ただぼけーっとすわっているのさ。かと思うと、登場人物が全員顔を並べていて、さあお書きなさい、と促されるようなときもある。いずれにしろ、仕事場には毎日通わないとね。さもないと、せっかくいいアイデアが浮かんでも、文章にできなくなってしまう」
 ハリスはギュスターヴ・フローベールの小説の一節を引用する。「"人の言葉はひび割れた太鼓のようなもの。空の星まで涙ぐませようとしても、熊を踊らせる程度の調べしか打ち鳴らせない"」

 ハリスが生まれ育ったのは、ミシシッピの小さな村だった。そこを流れるコールドウォーター川の近くで、両親は綿、大豆、小麦等の農園を経営していた。「子供の頃の遊び友だちは、もっぱら七面鳥だったよ」と、ハリスは言う。
 長じてテキサス州のベイラー大学に進み、英文学を専攻。その後、同州のウェイコで新聞記者の仕事につくと、事件の取材でたびたび北メキシコに足を運んだ。その際、刑務所付きの一人の医師と知り合いになったのだが、後年、その医師のイメージからインスピレーションを得て、ハンニバル・レクターというキャラクターを創造したのだという。
 1968年、AP通信のニューヨーク支局に雇われる。強盗、殺人、暴動等の取材・報道にあたった。そこで勤務しているあいだに、二人の同僚の記者と共同で、テロリスト・グループがスーパーボウルの催されるスタジアムを襲うサスペンス小説のアウトラインを考えついた(それが後に『ブラック サンデー』に結実し、出版社からせしめた契約金は三人で分け合った。実際の執筆はハリスが単独で行なった)。
 ハンニバル・レクターが初めて登場するのは、ハリスの二作目の小説『レッド・ドラゴン』だが、彼はこの作品を、生まれ故郷のミシシッピで、病んだ父の介護をしながら書き上げたのだという。スティーヴン・キングは同書を『ゴッドファーザー』と並べて論じ、後にレクター博士を"当代の小説界における偉大なモンスター"と評した。この作品はマイケル・マン監督の手で後に映画化された。
 1988年に『羊たちの沈黙』が刊行されると、ハンニバルはめったに見られないようなポップ・カルチャー現象を巻き起こした。ヒロインのクラリス・スターリングは新米のFBI捜査官で、ある連続殺人犯を追う過程で獄中のハンニバルに会いにゆく。意表を衝くシーンで始まるこの作品は、数百万部のベストセラーとなった。1991年にはジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスの共演で映画化され、五つの部門でアカデミー賞を獲得した。
 意外なことに、ハリスはしばらくのあいだこの映画を見ていなかったという。1986年に『レッド・ドラゴン』が『マンハンター』というタイトルで(日本初公開当時の邦題は『刑事グラハム/凍りついた欲望』)映画化された際、その出来上がりに失望し、"もう映画化はこりごり"という心境になっていた。それで敬遠していたらしいのだが、『羊たちの沈黙』がオスカーを総なめにした二年後のある晩、天気予報をチェックしようとしてケーブル・テレビをつけたところ、たまたまこの映画が放映されていた。それと知らずに目を走らせて――「おやっと思った。登場人物たちが交わしている会話に聞き覚えがあったのさ」と、ハリスは言う。「で、腰を落ち着けて見はじめたんだが、いやいや、素晴らしい映画だったね」
 この映画の成功によって、ハンニバル・レクターは巨利を約束される知的財産の一つとなった。ハリスはつづいて、二つの続編、『ハンニバル』と『ハンニバル・ライジング』を刊行した。
 だが、その一方、人気が拡大するにつれて、読者は"人食いハンニバル"に飽きはじめるという現象も生まれていた。『ハンニバル・ライジング』は好評とは言いがたく、売れ行きの面でも満足すべきものではなかった。『ハンニバル・ライジング』を映画化した老練の製作者ディノ・デ・ラウレンティスは、『エンタテイメント・ウィークリー』誌にこう語っている――「ハリスは当初、この作品の執筆には乗り気じゃなかったんだ。で、ハンニバルのキャラクター権はこちらが握っているので、あんたが書かないんだったら、だれか別の人間に書かせるよ、と言ったら、ようやく書くと言ってくれたのさ」
 デ・ラウレンティスは2010年に死去しているのだが、ハリス自身はこの証言に真っ向から反論はせず、デ・ラウレンティスの熱意にほだされたのだと述べている。「デ・ラウレンティスがハンニバルのキャラクターの継続使用権を握っていたのは事実でね、だから彼は何でも好きなようにできたんだ」とハリスは言う。「とにかく彼は映画製作に並々ならぬ意欲を抱いていた。その熱意がこちらにも感染(うつ)ってしまったということかな」
 だが、読者の熱意が萎みはじめていたのは明らかで、2006年に『ハンニバル・ライジング』が刊行されたとき、ハードカヴァーの初版百五十万の発行部数に対して、実売は三十万部だったという(NPDブックスキャンの調査による)。"この作品は干上がりかけたエキスの残滓をむりやり搾り出そうとする露骨な試みだ"とくさした評論家たちもいる。かつては自然に流れていた会話も、どこか気どった、ぎごちないものになっている、というのだ(ハリスに言わせると、そういう受け止め方をされたのは、ハンニバルと叔母の紫夫人との会話を、日本の平安時代の詩的なスタイルを取り入れて書いた個所もあったせいかもしれないという。それは、十一世紀に生まれた日本の恋愛小説の古典『源氏物語』へのハリスなりのオマージュだったのだが、その意図を汲みとれなかった読者もすくなからずいたということなのだろう)。
 一方、その後テレビ化された『ハンニバル』シリーズはカルト的な人気を博したものの、三シーズンが終わったところで、NBCに打ち切られた(ハリスはこのシリーズを一度も見ていないが、いずれ全編まとめて一気に見てみるつもりだと言っている)。
 ハリス自身は今後もハンニバルをとりあげる可能性を排除してはいない。だが、いまはハンニバルと距離を置けてほっとしている、とも述べている。「何か別の方向にウィングを広げたくなったのさ」

 ハリスが自分の仕事について公言しなくなった理由については、多くのジャーナリストや伝記作者が各人各様の説を流してきた。ハリスの猟奇的なアイデアの根源はいったい何なのか。それは彼の中に生来猟奇的な嗜好があるからなんだ、という見方を詮索好きなレポーターたちがとっていて、それにハリスが激怒したせいだという説が根強く流れている。
 それはまったく根も葉もない憶測だ、とハリスは断言する。彼がマスコミのインタヴューを受け付けなくなったのは、もともとインタヴューが嫌いだし、その必要も認めなかったせいだという。「幸い、わたしの本は多くの読者に迎えられたので、特にセールスのプロモーションをする必要もなかった。わたしにとっても、そのほうが気楽だしね」
 では、実のところ、ハリスにはどうしてああいう猟奇的なアイデアが生まれるのか。それは親しい知人からもときどき訊かれるという。そんなときはどう答えるんですか、と私がたずねると、わからんかい、そんなことが、とでも言うように、ハリスはじっとこちらの顔を見つめた。「わたしはこう答えるんだ、自分は特別何かを創り出しているわけじゃない。周囲を眺めてみたまえ。何もかも現実に起きているじゃないか、とね」
 そしてハリスは口をつぐむと、ちょっとこわばった笑みを浮かべた。この問題についてはもうこれでおしまい、とその笑みはやんわりと語っていた――。

(c) 2019 The New York Times

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