書評

2019年6月号掲載

幻視から始まる壮大な未来史

――上田岳弘『キュー』

藤井太洋

対象書籍名:『キュー』
対象著者:上田岳弘
対象書籍ISBN:978-4-10-336735-2

 この物語は幻視から始まる。
 何十年も寝たきりの、言葉すら発しない祖父立花茂樹(たちばなしげき)の部屋にいたはずの五歳かそこらの「僕」、立花徹(たちばなとおる)はいつの間にか人造人間だけが座るスタジアムの観客席で、背筋をぴんと伸ばした祖父とともに眼下で繰り広げられるオリンピックの開会式を眺めていた。フィールドでは被(かぶ)り物を身につけたパフォーマーたちが人類の歴史を演じている。狩猟から農業へ、そして国家を作り殺人機械を生み出していき、原子爆弾を思わせる閃光の演出で終わる。目が眩んだ「僕」が辺りを見渡すと人造人間と祖父は薙ぎ払われていて、一人スタジアムに残された「僕」の幼い耳には、まだそれとわからない言葉、憲法九条が響いていた。
 政治と時事が縦横に絡み合う冒頭に続く本編は大きく三つの時代を目撃する三人の主人公の視点で物語が進行する。成人し、心療内科医となった立花徹が行方不明になった祖父を追う現代と、その祖父が若かりし時代、満州国の理想に敗れた石原莞爾(いしわらかんじ)に傾倒していく戦中戦後、そしてほぼ全ての人類が文字通りの意味で一つに溶け合い、Rejected People と呼ばれる人造人間だけが地上を闊歩している時代にコールドスリープから覚醒する現代人の Genius lul-lul が旅をする七百年後の《予定された未来》。色合いの異なる時代に登場し、ときに視点をも提供する人々は、その能力も含めて豊かなバリエーションで主人公たちの脇を固めている。
 立花徹が高校時代に想いを寄せていた渡辺恭子(わたなべきょうこ)は、自分の前世を広島で原子爆弾に焼かれた椚節子(くぬぎせつこ)だと信じているだけでなく、第二次世界大戦に関係した人々の記憶を体験することができるし、徹を拉致して彼の祖父、茂樹の目的を阻もうとする組織「等国(レヴェラーズ)」の武藤は《個の廃止》というパーミッションポイントに関連した特殊な能力を持ち、他人の感覚を体験することができる。当の祖父は等国と対立する「錐国(ギムレッツ)」の重要人物であることを自覚しているし、満州の夢に敗れて日本に帰る石原莞爾はあたかも戦後を見てきたかのような慧眼で、《世界最終戦争》と、憲法の平和条項を希求している。これらの登場人物たちのモノローグを借りて積み上げていく未来史観が、本作の最大の魅力だ。
 正直にいえば、上田の語りには納得できない部分もある。私は、自分自身が人生の最も良い時期に、技術者として携わったインターネットという成果が、物語に要請された必然として描かれたことが不愉快だったし、憲法九条の成立を大きなテーマとして扱いながら、時の総理大臣である幣原喜重郎や、人類が初めて誓った不戦――パリ不戦条約の存在を無視して、怪人、石原莞爾の発案であるかのように描かれたことは、政治的に危険だとも感じた。
 だが、そんな苛立ちもまた上田の掌中にあったのだろう。数ページで視点とともに入れ替わる文体の奔流は、読者の小さな疑問が反発に育ついとまを与えない。主人公の拉致という、きわめて現実的な出来事で幕を開ける現代パートが過去と未来からの文章に侵食されていき、機械の語る幻視だったはずの未来、全ての人類がひとつに溶け合った《予定された未来》こそが確固たる手触りを持つ「現実」なのだと気付くとき、小品の『ニムロッド』では描きえなかった諦念の先に延びる未来史が幕を開ける。
 時事を縦横に織り上げた幻から始まった物語を四〇〇ページに及ぶエンターテインメントに結実させた上田は、今までの作品で幾度も描いてきた、人が溶け合っていく未来の骨格をついに明らかにした。次に取り組む作品で、どんな血肉がこの異形の骨を包むのか、楽しみで仕方がない。

 (ふじい・たいよう 作家)

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