書評

2019年2月号掲載

神話的ともいうべき想像力

――四方田犬彦『すべての鳥を放つ』

野崎歓

対象書籍名:『すべての鳥を放つ』
対象著者:四方田犬彦
対象書籍ISBN:978-4-10-367110-7

 これまで一五〇冊を超える著作を送り出してきた著者による、初めての小説である。当然ながら、およそ"新人"離れした筆遣いとダイナミックな構想力に舌を巻く。これぞまさに本物の長編小説(ロマン)と思わせる雄編の登場だ。
 1972年春、「東都大学」の生協前の情景から物語は始まる。主人公・瀬能明生は山陰の田舎町から上京してきた新入生。右も左もよくわからないうぶな彼の目をとおして、周囲の学生たちの姿や、東京の街、そして多様な文化シーンのありさまが描き出される。「ニューロック」の轟音に、刺激的なアングラ演劇。学生たちは難解な映画や前衛的文学に入れ揚げ、キャンパスは立看だらけだ。何もかもが、無定形な熱気にあふれ返っていた時代である。
 そんなめくるめく「魔法の世界」に足を踏み入れた明生は、そこに潜む恐るべき暴力と恐怖の一端にも触れてしまう。新左翼の活動家と勘違いされた彼は、敵対する党派の男たちにキャンパス奥の草むらに連れ込まれ、狼藉を受けたのだ。東都大学のモデルが東京大学であることは間違いない。七〇年代、東大駒場では過激派セクトどうしが「殲滅」の闘いを繰り広げ、何人かが命を落としている。単なる人違いによって犠牲となった学生もいた。その残酷な事件の記憶は、当時駒場で学んだ者の胸にとげのように突き刺さったままだ。評者は著者の数年後輩だが、「光に満ちた」駒場キャンパスの裏側を支配していた「陰惨な世界」をなまなましく呼び覚ました一点をもってしても、この作品には格別の意義があると感じずにはいられない。
 十数年後、主人公は文壇バーで出会った「中上健次」に「あんた、双子だろう?」と決めつけられる。確かに、敵対する過激派に追われる「双子の片割れ」というべき存在がどこかにいるはずなのだ。自らの分身との出会いによって自己の殻が割れ、解放の時が訪れる。『すべての鳥を放つ』のストーリーはそんな神話的ともいうべき想像力のはたらきによって翼を広げていく。
 そのなかで鮮やかに際立つのが、入学直後に明生が知りあった女子学生、賢木未紀の姿である。知的なスノビズムを競いあう男子学生たちを相手に一歩も引かず、女にだって「立小便」ができることを道玄坂で証明してみせたりする(!)未紀こそは、本書の核心を握る魅惑のヒロインというべきだろう。最初は長い髪の乙女だった彼女は、やがて「毬栗のよう」なショートヘアになる。消息を絶ったのちふたたび現れたとき、彼女はスキンヘッドの前衛芸術家となっている。だが、つねに明生の不意を突くその存在感とは裏腹に、未紀はたえず彼のもとから逃れ去り、あとには鮮烈なイメージが残るのみだ。その「残像」の何といきいきとして切なく、美しいことか。
 一切はたえず失われていき、人生のもっとも甘美な部分をわれわれは取り逃がし続ける。シャトーブリアンの『墓の彼方の回想』とも通いあうような深いメランコリーが本書の底流にある。だが同時に、これは愉快なくすぐりや知的なたくらみに満ち、読む愉しみを存分に味わわせてくれる作品だ。明生の友人たちやニューアカ知識人のモデルを穿鑿したくなる読者もいるだろう。「四方田素子雄」なる評論家も登場し、おっちょこちょいな個性で場を賑わせる。東京からパリ、さらにはマダガスカルへと舞台を移し、1970年代から現代にまで及ぶ物語は、そんな細部の面白さによってしっかり支えられている。この作品は著者の代表作の一つとなるに違いない。そしてまたひょっとすると、小説こそは今後、著者の重要なフィールドとなるのではないかと(期待を込めて)予想したくなるのだ。

 (のざき・かん 仏文学者/東京大学教授)

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