書評

2018年12月号掲載

追悼 長部日出雄

うわァ、オサベさーん

大村彦次郎

2018年10月18日に亡くなった長部日出雄さんは、『津軽世去れ節』『映画監督』などの小説家であり、若き日は対談構成の名手であり、「紙ヒコーキ通信」などの映画批評家であり、(“松竹ヌーベルバーグ”の名付け親だった)、太宰治や棟方志功などの伝記作家であり、『天皇はどこから来たか』などの評論家でもあった。享年八十四。

img_201812_07_1.jpg

 長部日出雄さんとはおよそ六十年を越す付き合いになった。ワセダに「早稲田学報」という昔ながらの校友会雑誌があって、その編集アルバイト先に、私より一年先輩の高井有一さん、一年後輩の長部さんがいて、偶々知り合った、という仲である。
 一昨年の秋、高井さんが亡くなり、ホテルオークラの地下で偲ぶ会が催された折、つえを曳いた、白髯(はくぜん)の長部さんが久しぶりに姿を見せた。久闊を叙す、とはこのことか、とおたがい肩を叩いて、笑い合った。
 長部さんの作家履歴を見ると、早稲田の文学部を中退し、読売新聞社に入社した、とあるが、実は卒業間ぎわに単位をひとつ落としたので、卒業証書が貰えなかっただけの話である。当時は中退というのが文学青年にとってはカッコ好く、野坂昭如さんも五木寛之さんもそれを売り物にした訳ではないが、ハバを利かせた。
「週刊読売」の記者時代はご本人はどう思っていたか、ハタ目には水を得た魚のようなところがあった。和製ヌーベル・バーグ華やかなりし頃で、長部さんは大島渚グループに接触し、石堂淑朗、浦山桐郎、佐藤慶といった人たちと終生の親交を結んだ。当時、新宿のバア「ユニコーン」へ行けば、オサベッチの愛称で呼ばれる長部さんがいつもいた。この店は大島組のアジトでもあった。
 小説雑誌の編集者は四谷の「まろうど」という酒場にたむろした。こちらは当時売り出し中の黒メガネの野坂さんが蟠踞(ばんきょ)して、よく軍歌を唱ったりしていた。長部さんはときに新宿を抜け出し、四谷組へ合流した。向こうでは「インターナショナル」、こちらへ来れば、「麦と兵隊」である。
 昭和四十四年、私が「小説現代」の編集責任者になってまもなく、大型新人と銘打ち、石堂淑朗、長部日出雄の両氏に初めての小説を書いてもらった。二人の登場は賛否相半ばし、話題を呼んだが、長部さんはそのあと郷里弘前へ帰り、「津軽じょんがら節」と「津軽世去れ節」を書いて、編集部宛に送ってきた。その二作が第六十九回の直木賞になった。同時受賞者は「暗殺の年輪」の藤沢周平さんである。
 八戸の三浦哲郎、仙台の常盤新平、山形の井上ひさし、おなじく藤沢周平、それに弘前の長部さんが加わって、この五人が当時、昭和ひとケタ生まれの、東北の風土を代表する作家と言われたことがあった。この人たちに共通するのは律義で、万事控え目で、そのくせテコでも動かぬみずからへの執着力である。その粘りづよさにかけては、いずれ劣らぬ東北産の逸品ぞろいだったが、平成の終りを待つことなく、長部さんまでが亡くなって、みんな消えてしまった。
 長部さんが郷里青森の天才版画家棟方志功の伝記小説『鬼が来た 棟方志功伝』に取り組んだのは直木賞を受賞してから数年後のことである。このときも"津軽じょっぱり"の意地を見せた。この仕事一本に打ち込むために、他の原稿をすべて断わり、棟方の全足跡を追って、国内ばかりかインドまで旅し、相手の境涯をまるごと体験して、書き上げた。その執念たるや、まさに"ムナカタの鬼"が乗り移ったようなところがあった。この作品で芸術選奨文部大臣賞を貰った。
 そのあと五十歳を過ぎて、若い頃から憧れていた映画作りに、みずからの夢を賭けた。津軽三味線の弾き手を主人公にした自作の脚色、演出である。製作費のことを考えると、周囲は反対したが、本人は映画評論だけでは満足せず、監督のなりわいや才能を肌身で知るためには、ぜひ一本撮りたい、とこだわった。原作料や監督料を除いた自己資金三千万円が元手である。もちろんその程度のカネで映画が出来る筈がないので、テレビに出演したり、他に出資者を求めたりした。明石家さんまの番組に常連ゲストとして顔を出し、〈笑う書割り〉と自嘲すらした。
 その頃のこと、高井有一さんと長部さんと三人連れ立って、京都へ一泊旅行したことがある。嵐山に向かう私電の途中駅から何人もの女学生が乗車してきて、長部さんの顔を目にすると、「うわァ、オサベさーん」と、喚声を上げた。テレビの人気番組を知らないこちらが時勢に遅れていたのである。
 映画『夢の祭り』は加賀まりこが出演したりして話題を呼んだが、興行的には成功しなかった。封切日の朝、銀座の上映館へ野坂さんほか何人かで客の入り具合を見に行ったが、客席は閑散としていた。
 自作に失敗したとはいえ、これを機に並みの評論家とは一線を画した。「オール讀物」に長年連載した「紙ヒコーキ通信」は映画への愛情がにじみ出ていて、ファンがおおぜいいた。彼は試写室へ通うことなく、週末になると、街の上映館へ出かけ、入場料を払って二、三本見た。映画館のはしごをする間に、腹ごしらえに調理のはやいラーメンやカツ丼のようなものを口に入れる。「紙ヒコーキ通信」が一時中断されたときは会員を募って、ミニコミ紙のように、赤字覚悟で発行を続けた。
 長部さん、もうそんな苦労をしなくてもいいね。みんな知っている。安らかに眠り給まえ。

 (おおむら・ひこじろう 元編集者)

最新の書評

ページの先頭へ