書評

2018年12月号掲載

その先に、新しい読書の道が

――津野海太郎『最後の読書』

酒井順子

対象書籍名:『最後の読書』
対象著者:津野海太郎
対象書籍ISBN:978-4-10-120282-2

 かつて親が、本を読みながら、
「ああ、目が見えない」
 とぼやいていた意味が、次第にわかるようになってきました。年をとるにつれ小さな文字は見えづらくなり、薄暗がりもまた、つらい。ホテルなどに泊まった時、読書に適さない照明器具だったりすると、ハズキルーペのコマーシャルにおける渡辺謙の怒りが理解できる気分に......。
『最後の読書』は、一九三八年生まれの著者の、人生の仕上げをする時期にあたって、変わりゆく読書に対する感覚を綴った書です。視力に関する記述は、最初の方に出てくるのであり、鶴見俊輔、幸田露伴といった先人達もまた、年をとるにつれて読むこと、書くことが困難になっていったという様子が紹介されるのでした。
「目のよわり」という章もあります。「現場で本をつくる編集者のほとんどが、小さな活字の本は老人には読めない、読めてもきわめて読みにくい、という現実に気づいていない」ことが「問題」だとするのですが、「現場で本をつくる編集者のほとんど」の前に入るのは、「往年の私がそうだったように」という文章。
 そう、著者は長年、編集者として生きてきました。自身もまた、中年期にさしかかる前は、小さい活字で「かっこういい」雑誌をつくっていたのです。「おのれの過去の所行」を思い出せば、「おれには腹を立てる資格なんかないぞ」と思えてくる......。
 その年になってみないとわからないことがたくさんあることを、この本は教えてくれます。本を読むという作業は、スポーツ等とは違って一生の楽しみになる気がしていましたが、視力のみならず、記憶力の衰えなどもあって、若い頃と同じように読むことができなくなることが、説得力をもって記されている。
 本という物理的な存在をどうするか、という問題も浮上します。紀田順一郎氏が、蔵書とともに余生を過ごす計画がうまくいかなくなり、三万冊を一気に古書店に持って行ってもらった時の様子は、まさに「蔵書ロス」。そして著者は、やはり膨大な蔵書を、どうするのか......?
 私がさらに「あ」と思ったのは、本を読もうとする時に、読んでどうするのかと思ってしまう、という部分でした。「広い意味での勉強の本」は、「『来たるべき未来のために』というかすかな方向性をはらんでしまう」。だからこそ「『なにをいまさら』という内心の声をきく機会も増えてこざるをえない」、と。
「勉強の本」を読んで何らかの知識を得ると、確かに「これをこの先の仕事に生かそう」といった気持ちが湧いてきます。未来のために読書をしているというところが我々にはあるわけですが、その未来の存在に確信を持つことができなくなったとしたら......?
 しかし、それでも人は本を読むのでしょう。というよりむしろ、「未来のために」などと考えなくなったその先に、新しい読書の道が開けるのかもしれません。
 先日、八十四歳の誕生日を迎えられた美智子さまが、天皇退位後の楽しみとして、読書を挙げられていました。お二人と同世代の著者は、「おなじ時代に本とのつきあいをはじめた人間としての親愛感」を、天皇ご夫妻に抱いています。読書の軌跡は、生きてきた軌跡でもあるのです。
 視力、記憶力、そして蔵書など、年をとって手放さざるを得ないものがあることは、確かです。しかし一方で、長く本を読み続けたからこそ得られるものも、あるようです。幼い頃に愛読していた「児童百科事典」の実質的な編集長が誰であったかを長い時が経ってから知ることによって、自分がなぜ「編集という仕事に近づいていったのであったか」に、気づく著者。それは、子供の頃からずっと、歩きながらの読書を止められなかったほど本が好きだった著者へ、長い読書史がもたらすプレゼントであったように思うのでした。

 (さかい・じゅんこ エッセイスト)

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