書評

2018年9月号掲載

新潮クレスト・ブックス 創刊20周年記念特集

二枚目の紙

――トム・ハンクス『変わったタイプ』

堀江敏幸

〈新潮クレスト・ブックス〉は1998年のシリーズ創刊から今年で20年を迎えました。
この夏の新刊は、名優トム・ハンクスの小説家デビュー作『変わったタイプ』と、ミランダ・ジュライの初めての長篇小説『最初の悪い男』です。
9月から、全国200の書店で創刊20周年フェアを開催。二人のインタビューなどを収録したフリーマガジン「海外文学のない人生なんて」もフェア店でどうぞ!

対象書籍名:『変わったタイプ』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:トム・ハンクス著/小川高義訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590151-6

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 誰知らぬ者なきハリウッドのスター俳優が、六十一歳で世に問うた初めての小説集だという。さまざまな状況下で、さまざまな役柄を演じてきた経験豊富な才人だから、題材には事欠かないだろうし、ストーリーの組み立ても登場人物の会話も、さぞかし堂に入っているにちがいない。著名人がものした「文章」を前にすると、人はたいていそんな意地の悪い見方をするものだ。実際、ここには語るという行為における大きな自信に裏打ちされた、ぶれのないまなざしが感じられる。しかし同時に、そこから飾りものの虚を取り払った純粋な眼だけを残す慎ましさも稼働していて、これはまちがいなく言葉を扱う作家の属性だと言っていいだろう。
 2014年、「ニューヨーカー」に掲載された「アラン・ビーン、ほか四名」が契機となって、以後、三年のあいだに、興趣に富んだ十七の短篇が書きためられた。記念すべき第一作はまことに奇妙な味わいの小品で、これだけ読まされたら、どんなジャンルに収めたらいいのか回答に苦しんだかもしれない。ユーモアとナンセンス、そしてスラップ・スティック的なリズムがあるばかりでなく、現代社会への遠巻きの批判も隠し味になっている。
 仲のよい四人が月へ行く計画を立て、技術的な困難はたくみに端折って、みごと実行してしまうこの作品の登場人物は、語り手の「僕」もふくめて、何代か遡ればみな移民である。多様性への信頼こそが日々を支える最も重要な柱になっていることを、彼らは知っている。心の底ではいまだ安住の場を持てずにいる焦燥感と、それは矛盾しない。なにしろ、おなじ面子が、べつの短篇では南極に出かけて行くのだから。
 徹底的に楽しみつつも、「いま・ここ」と向き合うことを等しく恐れている王道からのはぐれ者、つまり Uncommon な型に入るしかない人々を、書き手はやさしく見守る。アポロ12号で月着陸船の操縦を担ったアラン・ビーンなどは、その典型だろう。アポロ13号の危機を描く映画で主役を張った者が着目する宇宙飛行士としてビーンの存在はいささか地味だが、その名を宇宙船に付すのはたんなるいたずら心ではなく、他の作品すべてを貫く姿勢のあらわれである。
 月に着陸することなくただ周回軌道に乗って還ってくる四人の不安を、他の登場人物たちも共有している。タイムトラベルで1939年6月8日に遡り、そこで知り合った女性と会うため、命を賭していま少し過去にとどまろうとする男。現在の自分に満足できない、少し変わり者の億万長者。第二次大戦中、西部戦線で目にした陰惨な死とみずからの左下肢を奪った現場のフラッシュバックに、毎晩のように襲われる男。さらには、父親に誘われて久しぶりにサーフィンをしに出かけた海辺で、ほかならぬその父の恋人を目撃してしまう十九歳の息子。大人たちばかりではない。離婚したのち、それぞれ新しい相手を見つけている両親のあいだで、少年が耐えている地に足のつかない孤独も、宇宙に放り出された飛行士のそれと同質だ。
 幅広い主題を扱いながら、立ち返るのはいつもそうした感情の根である。タイムトラベルのなかで、史実としてはまだ出会っていない人の名を呼びそうになっている自分と向き合う、さみしさ。口にしてはならないその名前を、作者は古いタイプライターを使って描き出す。どの一篇にも、うるさいほどの音を立てる旧式のタイプライターが登場し、それが『変わったタイプ』という表題を支えているのだが、「心の中で思うこと」で語られているとおり、タイプ活字は書き文字とはちがって、使う者の気持ちに距離を与え、これから叩きだす言葉を指先で夢見させる。
 修理屋の主張は正しい。タイプライターはつねに目に見えるところに置いて使ってやらなければならない。ただしプラテンと呼ばれるローラーの表面を傷めないよう、紙は二枚重ねにする。書き手の、トム・ハンクスの立ち位置は、この二枚目の紙にある。心の中で思うことを、登場人物のひとりひとりに、下に敷かれた紙の、文字のないえくぼのようなくぼみに、そっとしまい込んでいるのだ。

 (ほりえ・としゆき 作家)

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