書評

2018年6月号掲載

フェア新刊 書評

「煩悩」を持つ人がヒトの生殖の未来を考えるための書

――松田洋一『性の進化史 いまヒトの染色体で何が起きているのか』

高橋真理子

対象書籍名:『性の進化史 いまヒトの染色体で何が起きているのか』
対象著者:松田洋一
対象書籍ISBN:978-4-10-603827-3

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 先日、久しぶりに朝日新聞の仲間が数人で蕎麦屋に集った。来年70歳になるOBに50代男性記者が「年をとれば煩悩がなくなるのか」と盛んに聞く。いや、最初はOB氏が前立腺肥大で手術を受けたと聞いて「術後でも快感はあるのか」という質問だった。記者同士は聞く方も答える方も明け透けである。答えは「ある」で、それから煩悩談義がにぎやかに続いた。
 酒席での他愛ない会話だが、女性である私は男性の性に対するこだわりに改めて感じ入ってしまった。50代男性は70代目前男性にそれを聞きたいのか......。もちろん、女性だって性には一方ならぬ関心を持つ。日本社会の規範が表に出さないようにさせているだけだ。とはいえ、関心の持ち方には男女差があると感じざるをえない。
 男女の違いは、ご存知のようにXとYという性染色体によってもたらされる。X染色体を2本持つのが女性で、XとYを持つのが男性だ。Y染色体はXに比べてとても小さい。それを初めて知る男の子は、たいてい、不本意な顔付きをするものだ。
 しかし、「Y染色体は退化の一途をたどり、やがてその中の遺伝子がすべて消失してしまう」と聞けば、不本意どころか、驚愕と恐怖の面持ちになるのではないか。
 これは、性染色体研究の世界的権威が一流科学雑誌に発表した学説である。この主張が出てくるまでの研究の積み重ねをわかりやすく解説し、性という切り口から生物の進化を見る視点を与え、ヒトの未来を考える土台をつくってくれる。それが本書だ。
「あとがき」にあるように、DNAや遺伝子、ゲノムに関する読み物はあふれているけれど、染色体について一般向けに書かれた本はほとんど見かけない。きっと、「染色体」という言葉に古臭いイメージが、場合によっては「おどろおどろしい」イメージがついているからだろう。何しろ一般の人がこの言葉を聞くのは「性染色体」でなければ「染色体異常」なのだから。
 しかし、染色体研究は決して古臭い学問ではないことが本書を読むとわかる。生物にはまだまだ謎がたくさんあり、それを解くのに染色体は大いに助けになる。特に、最近は性染色体の起源に関する研究が進んでいるという。ヒトと鳥類の性染色体の起源は異なる。鳥類と爬虫類の祖先は共通だが、鳥類とヘビ類の性染色体の起源は異なっていた。カメ類の起源も鳥類と異なる。ところが、沖縄本島の爬虫類・ミナミヤモリはニワトリと起源が同じだった。どうなっているの? と首をひねってしまうが、今のところはっきり言えるのは、両生類や爬虫類では性染色体の起源が多様だということだ。
 驚くことに、哺乳類であってもトゲネズミという動物には雄も雌もX染色体1本しか持たない種がいるそうである。X染色体1本でちゃんと雄と雌を産み分け、種を存続させている!
 結局、性決定の仕組みに必然性はなく、「たまたま進化の過程で獲得されたシステムに支配されているだけ」らしい。ということは、今後も変わっていく可能性があるということである。
 必然性はないとしても、大きな流れはある。哺乳類が卵生から胎生へと進化するにつれY染色体は短くなってきた。後戻りはしていない。その理由も本書には丁寧に書いてある。そして、変化のスピードは速い。とくに霊長類になってからが速い。そこから引き出されたのが「Y染色体は退化の一途をたどり、やがて遺伝子が消失してしまう」という先の学説だ。
 これに対する著者の専門家としての見解は読んでのお楽しみとしよう。それより、この学説が出る前から話題になっていた「精子の劣化」は、私たちにとってより切実な問題である。男性の精子数が50年間で大幅に減ったという研究結果をデンマークの研究者が発表したことは私にも記憶がある。米国では変化がないという報告も出たが、ヨーロッパではその後も精子濃度の低下が観察されているそうだ。一夫一婦制という婚姻形態がこの傾向に拍車をかけているのは、生物学的に見て間違いないらしい。生殖補助医療の発展により、生殖能力を欠くY染色体が後代に伝わるようになっていることも事実である。
 ヒトの生殖の未来はどうなってしまうのだろうか。これは、居酒屋での格好の話題だろうが、一方で不妊に苦しむ人たちにとっては差し迫って深刻な問題である。無神経に論じるのはいただけない。だからこそ、本書を読んで広い視野からヒトの生殖の未来を考えてみることをお勧めしたい。

 (たかはし・まりこ 朝日新聞科学コーディネーター)

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