書評

2018年5月号掲載

『ペインレス』上・下 刊行記念特集

もはやトラウマではない

――天童作品の切っ先を探る

紫野京作

対象書籍名:『ペインレス』(上・下)(新潮文庫改題『ペインレス(上)―私の痛みを抱いて―』『ペインレス(下)―あなたの愛を殺して―』)
対象著者:天童荒太
対象書籍ISBN:978-4-10-145717-8/978-4-10-145718-5

『ムーンナイト・ダイバー』は天童荒太の小説の中で最も「死」に接近遭遇したケースだった。大震災に続く津波によって流出した死者たちの遺品を、秘密裡に回収しようというグループが結成され、彼らに依頼されたダイバーがその任に当たるという設定なのだが、主人公は深夜の海底を彷徨いながら物言わぬ死の欠片をかき集めることになる。そして彼は、その都度性的な昂ぶりを抑え切れなくなってしまうのだ。
 3・11の海からこんな小説を構想する作家など天童を措いていないだろう。こう書けば不謹慎だろうとか、こんな風に表現すれば被災者は癒されるだろうといった忖度は、この作家にはない。死とエロスは本来親和性の高いものだが、あえて震災後の海中といった極限状況でそのモチーフを展開するという大胆さ。加えて、その一歩先に何かが生まれ得るのではないかと読者に問いかけるものが、この作品にはあった。
 9・11直後、NY市長だったジュリアーニは、記者会見で犠牲者を悼んだあと、「ゴー・ショッピング」と付け加えることを忘れなかった。消費が衰えないことが結果的に市民生活を救うのだという了解が、市長と市民の間にあったから、この発言に異を唱える者は現れなかったが、『ムーンナイト・ダイバー』と3・11の関係はそれに似ている。
 震災後、多くの作家が被災者を癒そう、日本人を癒そうとしてほぼ百%失敗した。天童作品は震災を素材とした小説の中で唯一の成功例だろう。何となれば、癒しといった小説の外側にある倫理観や常識に縛られていないからだ。小説本来のテーマの自由度が小さければ読者の感動もまた少ないのは道理だろう。坂本龍一との対談集『少年とアフリカ』の言葉を借りるなら「人間は癒そうとして癒せるものじゃない」のである。
「癒し」のイメージがいつの間にかついてしまった天童だが、実は一貫して読者を挑発してきたことが忘れられてはいまいか。『孤独の歌声』では、通念とは逆に孤独のプラス面を強調し、『家族狩り』では愛しすぎて殺し合う所まで行ってしまう家族像を描いた。これらは社会通念への堂々たる異議申し立てであって、奇を衒った逆張りの発想などではない。
 今回の長編『ペインレス』の主人公は、心の痛みを生来覚えたことのない女医だが、彼女の言動を追いながら、心に浮かんで去らなかった天童作品がある。『どーしたどーした』(イラスト・荒井良二)という絵本だ。小学三年生のゼンは、気にかかったことがあれば知らない人にでも「どーした」と尋ねるクセのある少年。隣近所で困っている人がいるとき、この「どーした」が活きてくるというストーリーで、一言でいうなら「共感」の大切さをテーマにした絵本ということになる。ロバート・ケネディがキング牧師暗殺の報に接した折の演説で「コンパッション」(=共感)と叫び、その直後に狙撃されたのが今からちょうど五十年前のことだ。
 思えばこの言葉、今の日本では使用頻度がひどく減少しているようだ。逆に「痛み」の方は増大の一途にある。ひょっとするとこの両者は反比例の関係にあるのかも知れない。
 天童作品でも、肉体的痛み、精神的苦痛については『永遠の仔』『家族狩り』等で入念に描かれてきた。虐待する側される側の双方から長編小説をものしてきた著者だけに、『ペインレス』における「心の痛みを持たぬ主人公」という設定は意外だった。同時にトラウマが全く扱われていないことも注目される。この作品は、虐待ゆえのトラウマから問題行動に走るといった因果律の支配する世界ではない。謎解きミステリーにおける動機と犯行を結ぶロジックが天童作品から姿を消したということだ。
 わが国の最先端にいる女性作家たち、例えば宮部みゆき、高村薫、桐野夏生も、このミステリー小説的因果律から離れつつある。『模倣犯』『冷血』『柔らかな頬』をその視点から読み返せば明らかだろう。
『ペインレス』では、旧来の動機や原因に当たる部分に、トラウマの代りにDNAや「進化」といったものを据えている。『ムーンナイト・ダイバー』では天災が同じ位置を占めている。それが何を意味するかは明らかだろう。トラウマを起点に現代を読み解くことにはもう無理があるのだ、あるいは原因と結果の方程式を夢想することには限界があるのだ、ということを、天童作品の流れは端的に示している。
 その先を考えなければ小説の未来はないと、天童荒太は思い定めているに違いない。

 (しや・きょうさく 文芸評論家)

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