書評

2018年4月号掲載

あっさり濃密に

――小山田浩子『庭』

柴田元幸

対象書籍名:『庭』
対象著者:小山田浩子
対象書籍ISBN:978-4-10-120543-4

『庭』。何ともあっさりした、一文字の書名。目次を開くと、収められた諸短篇も「うらぎゅう」「彼岸花」「延長」と簡潔な題が並ぶ。数えてみると、十五篇で題の文字数は計四十七字で、一篇平均三・一字。これも相当あっさりしている。そう言えばこの書き手のこれまでの著作の書名も『工場』と『穴』だ。
 が、本文に移ると、どのページも字が詰まっていて、改行もあまりなく、会話があっても一人喋るごとに改行したりはせず、一段落に何人もの発言が盛り込まれていて、非常に濃密である。典型的な段落のごく一部を引用する。
「久しぶりに足を踏み入れた裏庭は涼しく湿っていた。苔がじっとりと黒緑色に水分を含み、小さな木の実のようなつぼみのようなもののついた茎を伸ばしている。僕のつっかけの下でじわじわと水気が滲んだ。苔の上に二人がしゃがんで地面に手をついていた。同じ一点を見ているようだが、そこはポンプの跡ではなかった。孫の傍に置いてある小さなビニール袋には、熱帯魚の世話をするような小さな網が入っていた。『ああ奥さん。開かないの、私たちじゃ固くって』祖母が皺だらけの白い指で苔の上を示した。苔の中に細長い黒い隙間が開いている。隙間? 地面に隙間? 『私も手伝います』妻もしゃがみこんだ。僕が呆然と立っているのを尻目に三人の女性は『せえの』声をあわせると、その細長い隙間にそれぞれに指を突っこんでぐっと力を入れた」(「どじょう」)
 書名・作品名のあっさり感と、本文の濃密感。この共存に、この書き手独特の味わいが端的に表われているように思う。
 共存ということでいえば、現実的な要素と幻想的な要素の共存ということも目につく。夫婦、家族、企業といった場でのいかにも日常的な営みと、ひとまず幻想的と言っていいような出来事が、ひとつの作品の――往々にしてひとつの段落の――なかで共存している。現実から幻想へのスムーズな移行というのは現代日本の作家たちが(特に女性作家たちが)得意とするところだが、この人はとりわけ自然にそれをやってのける。苔、彼岸花、どじょう、カエル、蟹、クモ等々地味めの動植物をとっかかりに、するっと幻想に流れ込んでいく。幻想に入り込む登場人物の感性が讃えられたりもしない。ファンファーレはほぼナシ(あっさり)、だが書き込みは十分(濃密)。
 もっとも、この書き手に関してはそもそも、現実/幻想という区分そのものが無効だと考えるべきであるようだ。僕は二〇一七年五月にボストンとニューヨークで、自分がやっている英語文芸誌の刊行記念として小山田さんにアメリカ人作家ブライアン・エヴンソンと対話してもらったのだが、その際二人の意見が何より一致していたのは、「幻想」というレッテルが貼られるものの大半は、当事者(登場人物 and/or 書き手)にとってはまぎれもない「現実」だということだった。
 それにむろん、夫婦や会社といった「現実」に登場人物たちが対処していくなかで浮かび上がるのは、「現実」そのものの幻想性、不条理性である。といって、登場人物もしくは書き手が「世界は不条理なものだ」と涼しい顔をしていられるわけではない。現実の居心地の悪さ、面倒臭さはしっかりあって読者にまで伝染する。そこでも、不条理を感じている人物の感性が称揚されたりはしないから、生まれるのは自己肯定ではなくトホホ感、ユーモアである(一番おかしかったのは、同僚から何を言われても「そうですね」くらいしか言わず飲み会でも聞き手&食べ手に徹している語り手が、「うちの三人ボウズなんて、まあほっぽって育ててるけど、ちょっとしたジャングルに放したって多分生き延びるんじゃない、なんか実とか探してきてさ、芋虫食べたりさ、食べれる芋虫いるでしょ、ジャングルに」と言われたときだけは「カミキリムシの幼虫とかですね」と即答するところ〔「予報」〕)。
 十五短篇(うち三本は超短篇)どれも面白いが、特に際立つのは「動物園の迷子」と「庭声」。前者は「音楽の出てくる小説を」、後者は「谷崎潤一郎へのトリビュートを」との要請に応えて書かれた。どちらも「仕掛け」があるわけで、もしかしたらほか十三本がいわばしっかり「地」を形成しているからこそ、この二本が「図」として際立つのかもしれないが、とにかく各文芸誌の編集者諸氏は、まだまだいろんな引き出しがありそうなこの書き手に、あれこれ難題を吹っかけるといいんじゃないでしょうか。

 (しばた・もとゆき 翻訳家)

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