波 -E magazine Nami-とは

短期集中連載・最終回

ナミ戦記――あるリトルマガジンの50年史

④2000〜17
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南陀楼綾繁

★「カンヅメ」の部屋で

 新潮社クラブの二階で、この原稿を書いている。神楽坂の新潮社の近くにある、作家が泊まり込みで原稿を書くための施設だ。この連載のために何度か泊めてもらったが、50年にわたる『波』のバックナンバーが必要なので、ここから社内の部屋に出勤していた。最終回ということでわがままを云って、クラブに大量の資料を持ち込んだ。やっと、本当に「カンヅメ」の気分が味わえるわけだ。
 井上ひさしは、昭和40年代末にこのクラブに泊まり込んだときのことを書いている(「こんな生活」、『開高健全集』第22巻月報、新潮社)。「一階に広い和室、二階に洋間に和室という間取りで、階下と階上に一人ずつ書き手が閉じ籠るという仕組みになっていた」というのは、現在も同じだ。井上は、三カ月前から一階に籠っていた開高健に誘われて、朝食を一緒に食べるようになる。
 二人のあいだで、世話役のおばさんのことが話題にのぼる。「たとえば朝、おばさんは籠り人の眠りを妨げないように襖の隙間から十分も十五分もかけてそろりそろりと新聞を差し入れてくださる」。また、煙草を灰皿に載せたままトイレに入り、戻ってくるといつの間にか灰皿が掃除されているというのだ。
 仕事熱心だけど気味が悪いと云う井上に対し、開高は「おばさんは別にわれわれの行動を覗き見しているわけじゃない。ただ、彼女に編集者たちの念力が転移しているのです」と教えたという。そしてまた、クラブの壁は夜になるとじっとりと濡れてくるが、それは「原稿が書けなくて七転八倒した老若男女の作家や評論家たちの行方知れない念力が転移したものなんですな」とも話したそうだ。
 作家が泊まり込んでいないときのクラブは、雑誌の対談やインタビューの収録場所としても使われている。『波』の記事にはしばしば、一階の座敷で撮ったと思われる写真が添えられている。
 作家と編集者の「念力」が転移したこのクラブで、2000年代の『波』の誌面を眺めていこう。

★雑誌・シリーズとの連動

 2000年以降の新潮社の動きを見ておくと、雑誌では00年に『SINRA』が休刊(14年7月に復刊)、01年に『FOCUS』が休刊した。そして00年には『ENGINE』、01年に『週刊コミックバンチ』、02年に『考える人』、04年に『旅』(JTBから権利譲渡されて新創刊)、06年に『yom yom』を創刊。レーベルとしては、00年に新潮OH!文庫とRACCO BOOKS、03年に新潮新書をはじめている。新しいジャンルや読者層を開拓していこうという姿勢がうかがえる。
 それに対応して、社内機構も変化していく。1999年4月に出版部とは別に出版企画部が創設される。2001年6月には出版部内に第一編集部、第二編集部、文庫編集部を設け、出版企画部内にノンフィクション編集部、企画編集部を設けた。このうち、文庫編集部はのちに文庫出版部として独立する。
 こういった変化は、『波』の編集のしかたにも影響を及ぼしたと思われる。00年5月号から11年5月号まで11年にわたって『波』編集長を務めた高梨通夫さん(現・文庫編集部次長)は、「私の前任の水藤節子さんが編集長の頃から、『波』の編集部というものがなくなり、各部署からの『波』担当者が企画を出すかたちで誌面をつくるようになりました」と云う。それまでは、刊行予定の新刊のリストをもとに、『波』の編集部で企画を決めていったが、各部署の担当者のプランを編集長がまとめるかたちに変わったのだという。
 推測だが、これは多様化していく出版物をなるべくまんべんなく取り上げるためであり、同時に、『波』の連載の書籍化をよりスムーズに進める目的があったのではないか。たしかに、この頃から『考える人』、『Foresight』、『旅』、新潮文庫、とんぼの本、新潮選書、新潮新書などの雑誌・レーベルごとの1ページのコラムが増えていく。各部の特徴が誌面に反映されはじめたと云えるだろう。
 04年1月号からは、新潮文庫の創刊90周年を記念して、「Yonda?のビックリ豆知識」を連載。新潮文庫のシンボルマークのブドウが三種類あったこと、紐しおり(スピン)を付ける理由、著者名順の整理番号の付けかた、価格の変化など、はじめて知ることが多く面白い。
 この年5月号では、新潮新書創刊1周年記念として、書店員3人による座談会「書店から『新潮新書』に物申す!」を掲載。創刊時の印象は、「あまり引っかからなかったんですよ、正直言って」(池袋・東京旭屋書店 藤谷繁人)、「私もぼんやりしていて何も覚えていません」(池袋・ジュンク堂書店 田口久美子)ときわめて率直な意見を述べている。また、翌年5月号でも、文化部記者覆面座談会「今年も『新潮新書』に物申す!」を掲載。あまりに厳しい意見に、我慢できなくなった新書の編集長が「いろいろな新書があっていいと思うんですよ」と反論する場面もあった。
 06年3月号では、『週刊新潮』創刊50周年を記念して、福田和也と編集長の早川清の対談「『週刊新潮』の五十年を貫くもの」を掲載。これまで、『波』が『週刊新潮』を取り上げることはほとんどなかった。
 このように、新潮社の出版活動の節目に掲載された記事は、あとで貴重な資料となる。新潮社に限らず、出版社は自社の自慢だと避けずに、どんどん「◎周年記念企画」をやってほしい。それに、『波』は、その種の企画に最もふさわしい媒体なのだから。
 07年1月号から、それまでの96ページから一気に32ページ増えて、128ページになった。この号は、連載中の8本に加えて新連載が3本と計11本も連載があった(コラムは除く)。75年1月号で4本、85年1月号で4本、95年1月号でも7本と新連載1本だったことを思えば、大幅な増加であり、それだけ『波』から生まれる本が増えることになったわけだ。
 高梨編集長の時代にもうひとつ変わった点は、挟み込みのカラーページ(あるいは用紙を替えてのモノクロページ)の充実である。それまでも中ほどに4ページほどのカラーがあったが、そのほとんどは広告として使われてきた。それが、05年からはカラーページもひとつの記事となり、ノンブルが付されることが増える。たとえば、6月号の「いしいしんじ『ポーの話』刊行記念特集」、7月号の「『考える人』創刊三周年」、8月号の「戦後60年フェア」(広告扱いだが、その次の特集「戦後60年を読む」につながっている)、9月号の「新潮クレスト・ブックス ベスト・セレクション2005」、10月号の浅田次郎「『憑神』を読む、歩く」、11月号の高村薫『新リア王』の著者インタビューなど。
 翌年からはさすがに毎月ではなくなるが、クレスト・ブックスに関しては、毎年9月号に「ベスト・セレクション」特集を組み、作家や評論家の座談会やアンケート「私の好きなクレスト・ブックス」、今後刊行を予定するタイトル紹介などを掲載。このシリーズへの最良の入り口になっている。また、毎年6月号には「新潮選書フェア」があり、対談や書評を掲載している。
 これらの挟み込みは、その部分だけ抜き刷りし冊子にして、書店などでの販促に使われる。『波』でノンブルが入っている場合は、それを消したバージョンを印刷することもあったという。

★著者と編集者のドラマ

 2000年以降、現在までの連載は、ざっと80本以上。それらのうち、目につくものを挙げておく。
 小説、エッセイでは、庄野潤三が晩年の夫婦の生活を描いた「うさぎのミミリー」(01年1月号~)と「けい子ちゃんのゆかた」(04年1月号~)、一時間ごとに一回という構成で人生の風景を切り取る乃南アサ「二十四時間」(02年2月号~)、強くて優しい母親を回想した櫻井よしこ「何があっても大丈夫」(02年3月号~)、同じく母との関係を描いた佐野洋子「シズコさん」(06年1月号~)、バツイチ、子持ちのアラフォー女性が花柳界に飛び込む群ようこ「ぎっちょんちょん」(09年1月号~)、椎名誠「ぼくがいま、死について思うこと」(11年9月号~)など。
 12年10月号スタートの鹿島田真希「少女のための秘密の聖書」は、同年8月号から連載開始予定だったが、鹿島田の芥川賞受賞によって開始が遅れた。高梨さんに替わって11年6月号から編集長となった木村達哉さん(現・文庫編集部副部長)は、「『波』では、『新潮』などの文芸誌の枠に入りきらない小説を連載するようにしていました。鹿島田さんの作品は担当編集者から、旧約聖書の魅惑的な世界を描くものだと聞いて、それまでの鹿島田さんの小説とは内容もスタイルも異なる、チャレンジングな企画だと感じてお願いすることにしました」と云う。
 藤野千夜の「D菩薩峠漫研夏合宿」(13年10月号~)は、それまで著者が書かずにいた一人称の自伝的小説で、話題を呼んだ。この作品を読んだ他社の編集者に「漫画雑誌の編集者だった時代を書いてほしい」と依頼されて書いたのが、最新作の『編集ども集まれ!』(双葉社)だったという話を、藤野さんにインタビューした際にお聞きした。
 ノンフィクション、評論では、南伸坊が河合隼雄に弟子入りする「心理療法個人授業」(01年2月号~)、思想の見取り図をやさしく語り下ろした木田元「反哲学入門」(06年6月号~)、南方ビルマに出征した父からの絵入りの葉書をもとに書いた北原亞以子「父の戦地」(06年10月号~)、真逆な思想を持つ二人の作家の接点を論じた松本健一「三島由紀夫と司馬遼太郎」(08年10月号~)、18人の殺人者たちの肖像に自分史を重ね合わせた佐木隆三「わたしが出会った殺人者たち」(10年6月号~)、正岡子規の足跡を丹念にたどった森まゆみ「子規の音」(14年2月号~)、大澤真幸「山崎豊子の〈男〉」(16年3月号~)など。
 高梨さんによれば、文学以外のノンフィクションや評論、あるいは理系のエッセイなどを掲載する媒体が社内に少ない(『新潮45』はあるが)ことから、『波』に企画が持ち込まれることが多いという。
 途中で連載が中断したもの(浅田彰「手帖1999」)や、何らかの事情で他社から刊行されたもの(三山喬「トスキナの唄 流浪のキネマ屋・古海卓二伝」は、『夢を喰らう キネマの怪人・古海卓二』として筑摩書房から刊行)を除けば、どの連載も単行本、新書、選書などで書籍化される。北朝鮮から帰還した蓮池薫の手記「拉致と決断」(10年5月号~)は単行本で26万5000部、文庫版で4万6000部、池上彰「超訳 日本国憲法」(13年4月号~)は新書で11万9000部、遺伝や知能、犯罪に関するタブーを論じた橘玲「残酷すぎる真実」(15年3月号~、『言ってはいけない 残酷すぎる真実』として書籍化)は新書で47万部のベストセラーとなった。
 それらの書籍の「あとがき」には、連載から本ができるまでの過程を知ることができるものがある。
 たとえば、鹿島茂『パリの日本人』(新潮選書)は、『波』08年3月からの連載のほか、『新潮』『考える人』『新潮45』などが初出となっている。あとがきで著者は「締め切りがないとなにも書かないという私の悪癖を逆用して、さまざまなメディアを使って無理やり締め切りを作り出し、ついに途中でストップしていた連載を完遂させてくれた恩人として、新潮社選書編集部の庄司一郎氏におおいなる感謝の言葉を送りたい」と記している。
 また、阿部和重『幼少の帝国 成熟を拒否する日本人』は、『波』10年12月号からはじまったが、翌年3月に東日本大震災が発生する。「それまではどこか他人事のように『現代日本』に目を向けていたところがあった」が、3・11を経て、「この国で今なにが起きているのかをだれもが否応なく直視せざるを得ない状況が生まれてしまった」。そして、著者はすぐに被災地に向かうのだった。連載時のリアルタイム感が、この本を読みごたえのあるノンフィクションにしている。
『波』の連載とその書籍をみると、あらためて、一冊の本が出るために、著者と編集者の間に多くのドラマがあったのだと感じる。

★退場する文士、台頭する女性

 99年1月号には、高井有一と黒井千次の対談「『高らかな挽歌』をめぐって」を掲載。高井の純文学書下ろし特別作品『高らかな挽歌』についてのものだ。同シリーズとしては、本作が最後の函入りの本となった。『波』掲載の対談を小冊子にして挟み込むことは、本作以前にされなくなったようだ。
 この年には辻邦生、江藤淳、後藤明生、八木義徳らが亡くなる。00年には田中小実昌、山室静、河盛好蔵ら、01年には杉浦明平、山田風太郎ら、02年には半村良、古山高麗雄、日野啓三ら、03年には宮脇俊三、黒岩重吾、都筑道夫ら、04年には網野善彦、水上勉、石垣りんら、05年には丹羽文雄、倉橋由美子、串田孫一ら、06年には久世光彦、吉村昭、小島信夫、灰谷健次郎ら、07年には島尾ミホ、河合隼雄ら、08年には石井桃子、青山光二、早乙女貢ら、09年には庄野潤三、原田康子、日高敏隆ら、10年には井上ひさし、梅棹忠夫、高峰秀子らが亡くなる。
 きりがないのでこの辺でやめておくが、旧制の高校で青春を送った戦前生まれは、ほとんど亡くなるか、引退したと云えるだろう。彼らの多くは『波』に寄稿し、なかには連載を持っていた人もいる。

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1967年1月 創刊号

 11年10月には、北杜夫が亡くなる。84歳。北と『波』との関係は深く、67年1月の創刊号には表2(表紙裏)に『白きたおやかな峰』の原稿を掲載、「作家の秘密」と題するインタビューも載っている。その後、連載こそなかったものの、エッセイ、インタビュー、対談など、ほぼ毎年登場している。97年1月号の阿川弘之との対談「酔生夢死か、起死回生か。」は、前後数年に行なわれたほかの対談と合わせて、同題の単行本にまとまった。10年8月号では、旧制松本高校以来の親友だった辻邦生との書簡をまとめた『若き日の友情 辻邦生・北杜夫往復書簡』の刊行に際し、夫人の辻佐保子と対談している。これが『波』への最後の登場となる。
 北が亡くなった年の12月号では、「追悼・北杜夫さん」として、阿川弘之の娘である阿川佐和子と、担当編集者だった栗原正哉の追悼文を掲載した。栗原の文はこう結ばれている。
「世間の常識、規範からもっとも自由だった北さん、かといって反骨とか偏屈とも無縁だった北さん。存在そのものが無垢で自由そのもので、どんな枠にも収まらないから、人は北さんを『畸人』と呼ぶしかないだろう」
 15年8月には、阿川弘之が亡くなった。94歳。『波』への初登場は70年1・2月号の「海軍と私」というコラム。その後、エッセイ、インタビュー、対談、書評、表紙の筆蹟などで、40回以上登場している。98年4月号から2000年9月号まで「食味風々録」を連載。食べ物の思い出を綴ったエッセイだが、タイトルの由来は、刊行時に01年2月号で娘の佐和子と行なった対談「父さんはきっとおいしい」で語っている。なお、同作で読売文学賞(随筆・紀行賞)を受賞している。
 その後、『阿川弘之全集』全20巻の刊行を経て、13年8月号で「安岡の文章」を寄稿。この年1月に亡くなった安岡章太郎の没後に刊行された『文士の友情 吉行淳之介の事など』の書評で、その最後は「病み衰へながら九十二歳の天寿を全うした旧友安岡に、あらためて哀悼の辞を呈し、天国での冥福を祈る」だった。これが阿川の『波』への登場の最後であり、他誌も含めての絶筆だった。
 15年9月号の「編集室だより」は、阿川の逝去に際し、『波』との関わりを振り返っている。前月に刊行された『座談集 文士の好物』が遺著となった。自著のタイトルに「文士」を入れる作家は、おそらく今後は現れないだろう。大物作家が亡くなるたびに「最後の文士」と云われたが、阿川弘之こそが「最後の文士」だったのかもしれない。
 戦前生まれの作家が静かに退場していく一方で、『波』の誌面をにぎやかにしたのは女性の書き手だった。
 ためしに、75年1月号の目次から女性を拾ってみると、全18人中2人。85年1月号は26人中5人。95年1月号は31人中4人となる。これに対して、2017年1月号をみると、39人中16人が女性である(木皿泉は男性1人、女性1人、ミランダ・ジュライの訳者・岸本佐知子もカウント)。女性の躍進は明らかだろう。
 16年6月号から現編集長の楠瀬啓之さんは、「雑誌では巻頭と巻末に何を置くかが大事です。私が引き継ぐ前までは、巻末に津村節子さんのエッセイ『時のなごり』が載っていました(16年3月号まで)。編集長になってから、10月号から平岩弓枝さんがこれまで出会った人を回想する連載『なつかしい面影』を巻頭に置きました。17年10月号からは阿川佐和子さんの『やっぱり残るは食欲』を巻頭に置いています」と云う。
「食味風々録」を連載した阿川弘之の娘である阿川佐和子が、同じ雑誌で食に関するエッセイを連載する。いわば、文士から女性へとバトンが渡されたのだ。
 17年8月号には、黒柳徹子の「ここに立つのは私ではなくて」を掲載。前年7月に亡くなった永六輔への弔辞を文字起こししたもの。永さんのアゴが外れたという楽しい話からはじめ、最後は「私はこれからの人生について、あと十年は『徹子の部屋』を続けよう」と永さんに誓う。見事な弔辞だ。

★記憶に残る記事

 連載以外の記事もみておこう。
 01年11月号では、ドナルド・キーンの『明治天皇』刊行に合わせて10ページの特集を組んだ。著者インタビューのほか、童門冬二、原武史、森まゆみ、佐木隆三のエッセイ、近代史研究者の御厨貴による書評と充実している。
 05年6月号では、「とんでもない作家」と題して、島本理生が佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』の書評を書いている。翌年、この二人が結婚(その後、離婚→再婚)することを思うと、ファンとしては野次馬的にも興味深い。
 06年9月号では、村上春樹による都築響一『夜露死苦現代詩』の書評「蒐集する目と、説得する言葉」がいい。古くからの付き合いなので「都築響一くん」と呼び、「都築くんの書くものの強みは、常に自分の足で歩きまわって面白いものをみつけ、第一次資料として自分の中に丹念に蒐集し、それをもとに地べたからダイレクトに論を起こしていくところに」あり、同書で示そうとしたのは、「薄暗闇を生き延びるための用具として、エリーティズムとは無縁の場所で、実践的に手に取って使われている名もなき言語のありようなのだ」と評する。短い文章の中に、村上自身の言語観をも感じることができる。
 村上春樹と云えば、08年3月号では彼が訳したトルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』や、旧著の新装版刊行に合わせて、4人が寄稿する特集を組んでいる。また、12年6月号では、『1Q84』文庫版刊行に合わせて、綿矢りさと安西水丸がゆかりの地を巡る記事も楽しい。16年6月号では村上春樹と柴田元幸がすすめる新潮文庫の新訳・復刊シリーズ「村上柴田翻訳堂」のスタートに合わせ、角野栄子、中島京子らが寄稿。いずれも、『波』らしい、肩ひじ張らない記事になっている。
 船戸与一の畢生の大作『満州国演義』全9巻についてのインタビューもすごい。なにしろ、刊行中に3回も掲載されているのだ。07年5月号は第一巻『風の払暁』、第二巻『事変の夜』の刊行時で「だれも書いたことのない満州を」という意気込みを語っている。その次は、第六巻『大地の牙』刊行時の11年5月号。東日本大震災の直後であり、作品を語りつつ、今後の日本についても「ひとつの目標に向かうとき、日本人は強い」というメッセージを発した。14年1月号では、第八巻『南冥の雫』を語る。
 そして、15年3月号では最終巻『残夢の骸』刊行に合わせ、表紙を船戸の筆蹟にし、井家上隆幸の評論「〈正史〉と〈叛史〉をつむぐ、すさまじい力業」を掲載。「肉体は病におかされても精神は毫も揺るがぬ船戸与一のすさまじい力業をじっくりと味わっていただきたいものである」と結んだ。「編集室だより」でも、同作に触れ、全巻の原稿用紙は七千五百枚にのぼると書いている。
 船戸与一は同年4月に死去。6月号には高野秀行の追悼文「ゼロ度の男」を掲載。これがまた泣かせる名文なのである。
 連載以外で2000年代の『波』を代表する書き手をひとり挙げるとしたら、山田太一ではないかと私は思う。
 山田の『波』への初登場は、1987年5月号に掲載された上野瞭『砂の上のロビンソン』の書評だった。その後もエッセイや対談で登場しているが、その頻度はそれほど多くはない。しかし、2000年7月号でカーロン愛弓『父・鶴田浩二』の書評を書いて以降、14年9月号までに13回も登場し、そのほとんどが書評なのだ。取り上げる本も、帚木蓬生『千日紅の恋人』、平松洋子『なつかしいひと』や、クレスト・ブックスのベルンハルト・シュリンク『夏の嘘』、ジュンパ・ラヒリ『低地』と多様だ。山田太一に書評家というイメージはなかったので意外だったが、本人は楽しんで書いていたのではないか。編集者の「山田さんなら」という期待に見事に応えているように思える。なお、これらの書評は山田のエッセイ集にも収録されていないようだ。
 書評について、もう少し。
 他社本も対象とする「ブックプレート」という欄があったことは前回も触れたが、この欄は01年7月号を最後に姿を消す。しかし、05年12月号でいきなり復活し、片岡義男が新井敏記『人、旅に出る』(講談社)を書評しているのだ。ところが、翌年1月号にはこの欄は見当たらず、その後も復活しなかった。この辺の事情は、当時の編集長に聞いてもよく判らなかった。
 その後、10年4月号から瀧井朝世「サイン、コサイン、偏愛レビュー」がはじまる。新刊一冊と、そこから連想した二冊を合わせた三冊のレビュー。版元にもこだわらず、三冊とも新潮社以外の本という回も多い。結果として、「ブックプレート」の系譜を継ぐ連載になった。今年、『偏愛読書トライアングル』として書籍化されたが、現在も連載は続行されている。
 本に関する記事ということでは、07年7月号からの池谷伊佐夫「古本つれづれ草」も紹介しておきたい。古書についての蘊蓄を漫画で語る異色の連載だったが、1年で終了。その後、単行本にもなっていないようだ。

★ウェブと紙の関係

 95年、CD-ROM版「新潮文庫の100冊」が発売された。ボイジャー社との共同開発で、パソコンのディスプレイで読みやすいフォントや見出しなどをつくった。1万5000円という高額にもかかわらず、3万5000ページが収録されているお得感などから、発売後3年あまりで3万本以上売れるというヒット商品になった(萩野正昭『電子書籍奮戦記』)。『波』96年2月号では、紀田順一郎が「本格的な電子読書時代の幕開け」と題して、このCD-ROM版の読書体験を書いている。
 97年5月号の「編集室だより」では、「Web新潮」の創刊について触れた。
 2000年9月には、新潮社ほか出版社八社が、電子書籍をダウンロード販売する「電子文庫パブリ」をスタート。10月号ではその開店記念特別レポートとして、出久根達郎が体験記を書いている。携帯電話もパソコンも持たないという彼が、モニターの画面を見つめている写真にはどことなくもの悲しさと滑稽さがある。
 その後、インターネットやデバイスの発達により、電子出版は大きく変化してきた。新潮社でも約4500点を電子書籍として販売している。また、17年には『考える人』が休刊し、「Webでも考える人」で一部の連載を続行。『yom yom』は、紙の雑誌から電子版へと移行している。
『波』ではそれらの告知を載せる程度で、これまで積極的には電子書籍、電子雑誌と関わってこなかったようだ。しかし、最近では主要な記事を『波』のサイト(http://www.shincho-live.jp/ebook/nami/)に掲載しているし、新潮社も参加している書評サイト「Book Bang」(https://www.bookbang.jp/)にも『波』掲載の書評が転載される。
「ネット上でそれらの記事を読んで、紙の本を読む読者が増えているようです。紙の雑誌としての『波』のコンテンツがネットに転載されることで、自社の出版物の宣伝媒体としての役割が強くなってきたような気がします」と、現編集長の楠瀬さんは云う。
 面白い現象だと思うのは、PCとスマホのゲーム「文豪とアルケミスト」をめぐる動きだ。このゲームには漱石、芥川、太宰から徳田秋声、小林多喜二まで近代の文豪が登場し、主なユーザーである若い女性が文学に触れるきっかけとなっている。新潮社では、制作会社のDMM GAMESとコラボし、文豪の素顔や関係を伝えるアンソロジー『「文豪とアルケミスト」文学全集』を刊行。また、太宰治『走れメロス』、坂口安吾『堕落論』など新潮文庫6点に、ゲームキャラの限定カバーを付けて販売した。
 ネット発のゲームが、紙の本の新しい読者層を呼び起こしているのが面白い。

★おわりに

 50年にわたる『波』の誌面を2カ月かけてめくったとき、正直云って、2000年以降の誌面からは「雑誌らしさ」が薄まっているような印象を受けた。自社本のPRにこだわらず、広く読書人のための記事を載せていこう、あるいは、他誌ではできない企画をやっていこうという姿勢が薄れ、新潮社の出版戦略の一端を担う媒体に特化してしまったように思えたのだ。
 しかし、この「ナミ戦記」を書きながら、もう一度、丁寧に誌面に目を通していくと、それぞれの時代ごとに、『波』にかかわった編集者たちは、「雑誌らしさ」を保つための努力を怠っていないと感じるようになった。
 前編集長の木村達哉さんは、15年8月号で終戦70周年記念として「新潮社の『戦争本』」という広告をつくったときに、「自分の会社がこんなにいい本を出していたんだ」と気づいたという。自社の書籍や雑誌を知るとともに、インタビュー、座談会などの記事をまとめることで、新潮社における編集の流儀を学ぶことができる。「だから、『波』を編集すると、すべてのことが判るんです」と木村さんは云う。
 木村編集長の時代の11年8月号は、500号記念特集として、表紙に使われた文士たちの筆蹟43枚を図版で載せている。また、坪内祐三と重松清が寄稿している。高校生からほぼリアルタイムで『波』を読んできた坪内は、記憶に残る連載や記事を挙げて、「『これは楽しい夢』のような雑誌だ」と述べている。一方、重松は中上健次から「『波』を持って来てくれ」という電話を受けた思い出を記す。重松は83年に『早稲田文学』編集部におり、中上は同誌の編集委員だった。『波』を持参した重松に、中上はこう云う。
「編集者になりたいんだったら『波』を毎月読めよ、読むんだよ、ちゃんと読めよ、ちゃんと――。あの雑誌、ホンモノだから――」
 当時、中上は『波』に「スパニッシュ・キャラバンを捜して」をはじめるところだった。なぜ、彼が執拗に『波』を読めと勧めたのか。その理由を重松は、中上が『早稲田文学』にも通じるリトルマガジンのひとつのお手本として、『波』をとらえていたのかもしれないと推測する。
 じつは、この推測を裏付ける中上自身の発言が存在した。
『〈批評〉のトリアーデ』(トレヴィル)に収められた、中上へのインタビュー(聞き手は絓秀実、渡部直己、江中直紀。初出は『杼』2号、1983)で、古井由吉が集英社の『青春と読書』に『山躁賦』を連載したことに触れ、次のように述べているのだ。
「『青春と読書』はPR誌だからね。肩の力もぬけるし、いままでとまるでべつなことをやって失敗しても平気な場所でもある。『波』『図書』『ちくま』『風景』もみなおなじで、つまりあらたな『中間小説』の場所なんだよ。(略)中間小説誌の質がどうしようもなく低下したいま、文芸誌とのあいだの穴を埋めるのがリトル・マガジンなんだね」
 中上は、古井と並んで、「そういう道へ本能的に入ってゆく」作家として、大江健三郎を挙げているが、大江が『波』創刊号以来の常連執筆者であることを思うと、この指摘には説得力がある。
 さらに、こうも云う。
「つまり、『波』とか『風景』のような場所がむかしの文壇なんだ。みんなああいう場所から出てきた。日本の文学にまだ健康さが残っているとすれば、あの手のリトル・マガジンをもっている点だろうね。そこへいくと立松(和平)なんか、『波』などでも文芸誌とまったくおなじものを書いてしまう。虫のような本能がないんだね。わかっちゃいないんだ」
 この中上の発言を見つけてくれたのは、現編集長の楠瀬さんだが、彼もまた、文芸誌とは違う「『波』らしさ」を、「作家が肩ひじ張らずに作品を発表できたり、創作の裏側を見せたりするところ」にあると云う。そして、さまざまな世代の読者がどのページを開いても、なにかしら興味を感じる雑誌にしていきたいと語る。
 最後に、『波』でコラムを連載した高田宏の言葉を紹介したい。彼はすぐれた編集者であると同時に、『波』のようなリトルマガジンの最良の読者だった。高田は新潮社の歴史をひもときながら、次のように云っている。
「出版の初志もそこにある。自分だけに面白いものならば、出版の要は、はじめからない。自分も読みたいから、そしてお節介かもしれないが他人も読みたいだろうから、出版するのである。そこには、自分対他人という『世間』を見る横軸の目よりも、自分もそこで他人とともにながれている、その『時代』を見ている縦軸の目のほうが大きい。大衆感覚はそのまま歴史感覚だと言ってもいい」(『本のある生活』)
 今後も『波』が、著者と編集者、そして読者にとって「面白いもの」を載せる「ホンモノ」の雑誌として、続いていくことを願っている。
 (完)

10月号掲載の『波』検定の答え。
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 (なんだろう・あやしげ ライター、編集者)


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