書評

2018年1月号掲載

人生いろいろ、モノもいろいろ

――森山徹『モノに心はあるのか 動物行動学から考える「世界の仕組み」』(新潮選書)

高橋秀実

対象書籍名:『モノに心はあるのか 動物行動学から考える「世界の仕組み」』(新潮選書)
対象著者:森山徹
対象書籍ISBN:978-4-10-603821-1

 モノには心がある。
 かねてより私もそう考えている。例えば「石」。石は黙って聞いている。聞くばかりでうんともすんとも言わないので、あえていうなら頑なヤツ。「石頭」という慣用句もあるし、そもそも「こころ」とは「ここ(凝)り」に由来するわけで、おそらく凝り凝りに固まって動けないのだ。
 そうではありません。
 本書を読んで私はたしなめられたような気がした。著者によると「石は静止しようと行動している」のだという。通常、静止とは行動しないことだが、「静止しよう」と行動する。言われてみれば、止めるのも案外大変なのである。石は風雨はもちろんのこと、表面が金属やガスなど様々な物質に曝され、化学反応を起こしている。石片が剥がれるなどして徐々に「劣化」しているのだが、その劣化は「石によっても調整される」そうなのである。
「はがれ去り行く石の分子と、まだはがれない石の分子との結合が切れる瞬間は、両分子によって決められるとしか言いようがありません」
 分子同士が「それじゃまた」などとつぶやいてお別れしているのか。分子の中には静止行動にかかわらない分子もあり、それらも「間違いなく何らかの活動をしています」とのこと。お互いに活動を抑制したり調整したりした結果、静止している。だから「心」があるというのである。
 擬人化ではないのか? と一瞬訝ったのだが、著者の森山徹さんは動物行動学者。どうやら動物の行動を理解しようとする中で「心」を「隠れた活動体」と定義し、それを森羅万象に見出しているらしい。
 そのきっかけとなったのはダンゴムシの研究。従来の理論では、ダンゴムシには左右の脚の活動量を均一に保とうとする生得的行動、「交替制転向反応」があるとされていたが、彼は実験でダンゴムシにもそれぞれ「個性」があることを発見した。理論通りの生真面目なダンゴムシもいるが、変わり者で誤作動を繰り返すダンゴムシもおり、さらには変則的な行動を起こす気まぐれなダンゴムシもいて、理論を無視するかのように実験装置を乗り越えたりする。彼らは「心の状態を変化させるスピードが速」く、それが「生得的行動と環境との間に生じる不整合を解消」させることになるのではないか。一匹一匹をつぶさに見ることで「心」は浮かび上がってくるのである。
 確かに石も「石」として考えると、均一な固まりとして現われるが、ひとつをじっと見つめれば「心」のようなものを感じる。実際に分子レベルでは細々と活動しているわけで、「心」はそれを体感する媒介なのだ。著者は固定した概念である「世界」「意思」「コミュニケーション」なども「心」の観点から再考する。いわゆる情報理論では言葉には意味があるとされるが、意味は人それぞれ。発信者も受信者も意味を随時「創発」しており、何かが伝わったと感じるのも「意思の伝達感」を脳がでっちあげるだけで、多様なでっちあげこそが「心」の織りなす世界ではないかと。家族や社会も「不確かな集合体」で「個別的な行動決定機構からなる集合体」。お互いの心を尊重すれば、「集団としてまとまる」。まとめるのではなく、まとまる。まとめなくてもまとまるのは、そこに「隠れた活動体」、すなわち心があるからで、強引に統治するのはそれぞれの心を踏みにじることになるのである。
 本書はわかりやすく語りかけるように書かれているので、トランプ大統領などにも読んでいただきたい。科学的事象をエモーショナルに描いているようだが、それこそ新たなモーション(活動)を呼び覚ますのではないだろうか。
 モノにも心か......。
 読了後、私はつぶやき、「大体、モノというものも......」と考えて、はたと気がついた。私たちは物事を「〇〇というものは」などと言いがちである。つまり、なんでもかんでも「もの」化したがる傾向があり、モノに心があるというより、モノこそ心の働きなのかもしれない。

 (たかはし・ひでみね ノンフィクション作家)

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