書評

2018年1月号掲載

『遺訓』刊行記念 いま蘇る西郷隆盛

現代社会に風穴をあける西郷隆盛の“遺訓”

――佐藤賢一『遺訓』

末國善己

対象書籍名:『遺訓』
対象著者:佐藤賢一
対象書籍ISBN:978-4-10-112535-0

 2018年は、明治維新から一五〇年の節目であり、NHKの大河ドラマが西郷隆盛(さいごうたかもり)を主人公とする『西郷(せご)どん』に決まった。その影響もあり、幕末維新ものの歴史小説が続々と刊行されている。西洋史を題材にした歴史小説を得意とする佐藤賢一が、七年ぶりの日本ものに挑んだ『遺訓』は、西郷らが下野した政変が起こった明治六年から、西南戦争終結後の明治十一年までをたどることで、西郷が後世に伝えようとした"遺訓"とは何か、近代日本とは何かに迫る傑作である。
 山形県鶴岡市出身の著者は、2010年に、新選組の沖田総司(おきたそうじ)の義兄で、江戸を警備する庄内藩(現在の鶴岡市)預りの新徴組(しんちょうぐみ)隊士だった沖田林太郎(りんたろう)を軸に幕末を捉えた『新徴組』を発表している。『新徴組』の続編ともいえる本書は、西郷の護衛役を務めた林太郎の息子・芳次郎(よしじろう)を主人公に、西南戦争を清廉な武士の時代の終焉と位置付けている。
 戊辰戦争後、西郷は降伏した庄内藩に寛大な処置を行い、庄内藩士は西郷を敬愛するようになる。だが新政府の高官は、佐幕派の酒田県(旧庄内藩)を信頼しておらず、特に西郷が下野してからは、西郷と酒田県の連携を恐れていた。
 こうした状況もあり、酒田県には明治政府の密偵が入り込んでいたが、カンの鋭い芳次郎は簡単に密偵を見抜いていた。ある日、芳次郎は、薩摩藩士が得意とする示現流を使う凄腕の密偵と剣を交えるが取り逃がしてしまう。
 この示現流の男と芳次郎は宿敵となり、二人が何度も繰り広げる対決が物語を牽引していくことになる。特に、密命を帯びて清に渡った庄内藩の英雄・酒井玄蕃(さかいげんば)の護衛をする芳次郎が、馬車で進んでいるところを、気球に乗った示現流の男に襲われ、敵の爆撃に対処する方法を考える迫力の戦闘シーンは圧巻で、前半のクライマックスとなっている。
 ちなみに、フランス革命政府が、気球を使って偵察を行う世界初の航空部隊を作ったのは1794年のこと。本書の気球を使った空前絶後のアクションは、西洋史に精通する著者だからこそ書き得たアイディアといえるだろう。
 西郷は明治六年の政変に敗れて下野するが、これは鎖国を続ける韓(朝鮮)を武力で開国させるべきとする西郷を、日本の国力では対外戦争は行えないとの現実路線を唱える大久保利通(おおくぼとしみち)らが排除したことで起こったとされてきた。
 ただ著者は、西郷の主張はあくまで武力を背景にした韓との外交交渉だったとする。そして大久保が真に排除したかったのは、三権分立など先進的な政策を思い付く江藤新平(えとうしんぺい)だったというのだ。大久保は、戊辰戦争の時、河井継之助(かわいつぐのすけ)との会談を決裂させ悲惨な戦争を引き起こした交渉下手の岩村高俊(いわむらたかとし)を、不満が高まる佐賀県の権令にする。これが、佐賀士族の決起を早める謀略だったとする解釈には説得力がある。
 江藤の才能に嫉妬し、江藤の改革案で既得権が奪われることも恐れた大久保は、自分のようなエリートが権力を持ち続けるためには、「私を顧みることなく、天下を憂い、正義を貫き、そのために命を賭して戦う覚悟と、果敢に行動する力を持つ」存在、つまり武士を根絶やしにする必要があると確信。武士の中の武士である盟友・西郷の排除も決意する。
 現代の日本人は、お上の方針に従っていれば幸福になれると考えている人が多いように思える。これは西南戦争に勝利した大久保らが作った官僚による独断的な政治「有司専制」が今も続いているからではないか。著者が、私利私欲に走る役人を批判し、格差を広げる弱肉強食の世を改めるために立ち上がった西郷の物語を書いたのは、このまま明治時代に作られた古い制度を続けるのか、それとも西郷たちのように、上が間違えたらそれを糺(ただ)すため声を上げる社会を作るべきなのかを、問い掛けるためだったように思えてならない。
 さらにいえば、酒田県は、開拓した土地に換金性の高い茶畑と養蚕のための桑畑を作る殖産興業に力を入れる。だが中央集権化で地方の活力を削ぎたい大久保は、地場産業を興す地方自治体を警戒する。ここには地方創生とは名ばかりで、明治時代に出来た国家体制を疑いもせず、中央集権を維持しようとしている現代の政治家、官僚への批判も感じられた。
 国の舵取りをするなら「天道」を考える。勝つ負けるを作らない。これら西郷が残した"遺訓"は、明治時代に一部のエリートが作った国家体制が限界を迎え、閉塞感に満ちている現代社会に風穴をあけるヒントを与えてくれるのである。

 (すえくに・よしみ 文芸評論家)

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