書評

2017年7月号掲載

心に地殻変動が起きる小説

――服部文祥『息子と狩猟に』

松永美穂

対象書籍名:『息子と狩猟に』
対象著者:服部文祥
対象書籍ISBN:978-4-10-125322-0

 がつんと頭を殴られた感じ。「息子と狩猟に」というタイトルに、「息子とハイキングに」のようなノリで、父子が共に過ごすほほえましい週末の一コマを想像したりしていたのだ。もちろん、『サバイバル登山家』の著者で『狩猟文学マスターピース』の編者の小説だから、ほほえましいだけでは終わらず、ワイルドな命のやりとりが克明に語られるんだろう、との予感はあった。
 でも、予想以上だった。重い宿題をもらったような気がする。小説冒頭から、ハンターの倉内の話と並行して電話詐欺グループの内幕が詳しく描かれ、「何なんだろう?」と、不穏な気持ちになる。それがどれほど周到な伏線だったか、やがてわかってくる。息子と鹿狩りに行って狩りの大変さと命の大切さを教え、めでたしめでたし......ということではぜんぜん終わらない。めでたさの吹き飛ぶ不幸な遭遇があり、事件が起こり、父子は窮地に立たされる。
 作者の筆力にまず目を見張った。緻密な描写に説得力があり、リアリティ抜群だ。小説の構成もよく考えられていて、クライマックスへの持っていきかたがうまい。最後の十数ページ、殺すか殺されるかの場面では、倉内と、詐欺グループのリーダー・加藤の視点が交錯する。互いに相手を観察し、一瞬の隙を突こうとする。このあたり、雑誌掲載時に比べて内心の声が加筆され、段落を崩して短い文を連ねる修正を施したことで、スピード感がアップしている。子どもの視点で語られる部分にはひらがなが増えている。さらに、独立心の強い山村の共同体において、かつては司法に頼らずにならず者を処刑する仕事を猟師が引き受けていた、という初出時にはなかったエピソードが挿入されている。
 主人公がとる行動、彼の最終的決断に同意できるかどうかは、人によって意見が分かれるだろう。それが「重い宿題」なのかもしれない。読んですぐ忘れることができるような小説ではない。むしろ、これを読んだことで心に地殻変動が起きるタイプの作品だろう。考えてみれば現代では、そんな小説との出逢いは稀有なことではないだろうか。
 ふと、オーストリアの女性作家マルレーン・ハウスホーファーが書いた『壁』という小説(同学社から邦訳あり)を思い出した。従姉夫婦の山荘に招かれた中年女性が、たった一人でサバイバルしなければならなくなる話だ。山荘にある道具を工夫しながら使って小さな畑を作り、迷い込んできた雌牛の乳を搾り、銃を手にとって慣れない狩りをする。自らの正気を保つため、見つけた紙の余白に日記を書き記す。ある日、自分と同じサバイバーらしい人間の男性が現れたとき、彼女は驚くべき行動をとるのだが、わたし自身は彼女の気持ちに深く共感した。
「息子と狩猟に」の場合、問題はより複雑だ。サバイバルという条件は一致しているが、倉内と息子は現代社会の一員であり、翌日には会社や学校に復帰しなければならない。狩猟のルール、自然界のルールの一方で、人間社会の規則や法律から、彼らは自由ではない。ここでは「事後の処理」についても書かれているが、都合よく熊が出てくるところなどは、やや楽天的かもしれない。
「命」の問題に、「正義」の問題も追加される。でも、「正義」はいつ、誰が決めた、誰のためのもの? と考え始めると、話はどんどん根源的なところに向かっていく。
 本書に収められたもう一つの小説「K2」も、著者自身の登山体験を反映した描写のリアルさにとどまらない、ショッキングな状況を提示している。自分がこのような体験をする機会はほぼないだろう、とついつい思ってしまうが、武田泰淳の「ひかりごけ」や、1970年代にアンデス山中で墜落した飛行機とその乗客たちの話などが頭をよぎる。縁がないと思っていても、極限状態の方からやってくることがあるのかもしれない。いまはその状態にないことを感謝するか、一つの体験知として受けとめるか。いずれにしても、想像力のレッスンとして読んでおく価値のある問題作だ。

 (まつなが・みほ 翻訳家)

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