書評

2017年6月号掲載

又吉直樹『劇場』刊行記念書評特集

運転中のラジオ

町田康

対象書籍名:『劇場』
対象著者:又吉直樹
対象書籍ISBN:978-4-10-100651-2

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 先日。自らハンドルを握り、首都高速道路三号線を用賀方面に向かって走行していたところ三軒茶屋のあたりでなんだか急速に気持ちがざわついてきたので、音楽でも聴いたら少しは気が晴れるのではないか、例えばラモーンズの「Beat on the Brat」かなにかが流れたら、と思ってラジオのスイッチを入れた。そしたら。
 ラモーンズどころかジェスロ・タルすら流れず、だったらせめてルー・リードか、それが難しければもうロッド・スチュワートでもいいのだけれどもそうしたものすら流れない。じゃあなにが流れたかというと、ラジオから流れてきたのは陰気なおっさんのたどたどしい語りで、しかもそれが延々と続いて、いつまで経っても曲がかからない。
 そして用賀を過ぎる頃、それが放送大学で、おっさんは哲学の講義をしているのだということがわかって、それでさっきからニーチェがどうしたこうした言っていたのか、と合点がいった。
 それで聴くとはなしに聴いていたところ、ちょっとなに言ってるかわからないのだけれども、なるほどと思うところもあって、どういうところかというと、昔から人間には、もしかしたら自分は先祖とかそういう人がムチャクチャしんどい目に遭った、その犠牲があったから生きているのではないか、と思う後ろめたい気持ちがあって、それを情けない奴らがうまいこと利用したために人間がムチャクチャになった、みたいなことで、そこから先は話が複雑化したのと追い越し車線をノロノロ走る車にむかついて喚き散らしたのとでよくわからなかったのだけれども、そこのところは、そういやそうだよな、と思った。
 それで東名に入って川崎あたりで思うのは、そうして後ろめたいと思う気持ちが、自分が思うことのかなりの部分をカバーして、本当に思うことが表面上はなかったことになって、でも本当に思うことは思うことなので、本人や周りが矛盾に苦しむ、ということは普通に毎日、一日に六回以上起こっているなあ、ということだった。
 など考えるのはそう、『劇場』を読んだからで、ここではいろんな、そのようにしてカバーされ、直視しないで済む思いや考えが、文章によって覆いを外され、矛盾が明らかになる。ひとつを挙げるなれば例えば、それを愛情という言葉で覆っているが、実際には、一緒に居ることによって相手の精神と肉体を滅してしまうことがわかっていても離れられない、という気持ち、が描かれてある。
 通常は、でもそう思うと後ろめたいので、そこに運命とか、社会の掟とか、簡易スピ(リチュアル)とかを導入して、自分は後ろめたさの感覚を自覚して、それがわからぬほど無神経な人間でないと思いつつ、その後ろめたさに自滅しないで済むところに落とし込み、精神の安定を図りつつ、自分の情けなさを忘れる、という術が用いられる。しかしまあ、ときに気持ちがざわつくのは、それがたとえ高級ブランドであれ百均のものであれ、所詮はカバーに過ぎぬからであろう。
 しかるにここでは、そうしたカバーを外して、愛情の中に潜む利己的な気持ちや嫉妬心を剔抉、腑分けして、ざわつき、といった曖昧なものではなく、クリアーな形にしているのである。
 というとなにか露悪的なように聞こえるが、そうではなくして、そのようにして初めて、一般的な「理解」すなわち、安易でちゃちで情けない奴が自分の得や安心のために拵えた粗雑な見取り図の中に矮小化して位置づけるのではなくして、自分のこととして、その矛盾や葛藤に向き合うことができて、それがいまの、いろんなことがあった後の文学の役割だろうと思うからである。
 という訳でときに読むのが苦しかった『劇場』を読み終えて、とはいうものの日常に帰らぬ訳には参らぬから車に乗り込んだのだけれども、それはそれ、これはこれ、という訳にも、やはり参らない、なんとなればひとつのモデルでなく、写しでなく、もうひとつの現実だからという訳で、三軒茶屋でざわついた気持ちのカバーを外したら目の前に富士山。すんでのところで事故は免れたが死んでも仕方なかったのかも知れない、と思うような切迫した自分の気持ちがこの小説にあった。

 (まちだ・こう 作家)

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