書評

2017年5月号掲載

掬い取る手つき

――クセニヤ・メルニク『五月の雪』(新潮クレスト・ブックス)

谷崎由依

対象書籍名:『五月の雪』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:クセニヤ・メルニク著/小川高義訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590137-0

 五月の雪――なんて逆説的な響きだろう。芽吹いた緑は盛りを迎え、強すぎるほどの太陽のひかりが肌に痛いこともある五月。けれどもロシアの北の果て、極東の元流刑地マガダンの"五月"はそうではない。陽光は弱々しく、積雪も溶けかけている程度、あたらしい雪が降ることだってめずらしいわけではない。
 Snow in May という英語の原題がついている。マガダンで生まれ育った作者は十五歳でアラスカへ移住、そして英語で書かれた短篇集が本書なのだから、英語なのは当然だ。だけどわたしは考える。ロシア語で"五月"をなんと呼ぶのか知らないけれど、その言葉の持つニュアンスは、英語のそれとは違うのではないかと。少なくともマガダンでは違うはずだ。スターリン時代、各地に張りめぐらされた収容所群のうちでも、もっとも過酷な地域への入り口として知られた土地。出身地を打ち明けるのが憚られるような、隠してしまいたくなる過去を持つ街は、けれど収容所がなくなったあとは開発が進み、勤務地として望まれる場所ともなっている。
 収められた九つの短篇はゆるやかな連作をかたちづくる。特異な背景を持つマガダンにも、そこに生きるひとびとの日常がある。冒頭の「イタリアの恋愛、バナナの行列」では、マガダンからやってきてモスクワで買い物をする女性の一日が描かれるが、一九七五年のソ連で"買い物"をするとはどういうことか、その過剰さに度肝を抜かれる。わたしたちからすれば異常な、彼女にとっては普通のことのなかに、たくさんの事件と驚きがあり、心を震わせる。またもっとも時代設定の古い「イチゴ色の口紅」は、ある結婚の始まりから終わりまでを描く。家庭内暴力や政治の理不尽さ――これもどこまでも悲惨に描けそうな題材なのに、むしろ当たり前であるかのごとくやりすごす、繊細でありながら力強いひとびとの姿を作者は写し取る。ジュンパ・ラヒリから影響を受けたとのことだが、メルニクの骨太なユーモアとおおらかさは、おなじく移民作家であるイーユン・リーの資質にも近いのではないだろうか。短篇の名手チェーホフの名も思い出す。
 当たり前のこと、だけど大切なこと。わたしたちの生活は、そんなちいさな事件の連続だ。うっかりすると見過ごし忘れてしまう幾つもの瞬間を、メルニクの筆は鮮やかに掬い取っては言葉として焼きつける。まるでスナップショットのように。この本を読み終えたとき、家族写真のアルバムのようだと思った。順番にはならんでいない。いろんなひとが好きなところをひらいて持っていってしまうし、家族だけでなく近所のひとや、遠い繋がりの誰かも写り込んでいる。もちろん、死んでしまったひとも。そんな賑やかさと偶有性が、この一冊をとても豊かなものにしている。
「絶対つかまらない復讐団」や「夏の医学」は子どもの気持ちがリアルで、作者がまるで幼な子のように、この世のあらゆるものを不思議がり、面白がっているのが伝わる。また芸術もひとつのテーマだ。というのも強制収容所に閉じ込められた囚人たちの多くは、反政府的言動により取り締まりを受けた文化人たちにほかならなかったから。「上階の住人」は、収められたもののうちもっとも長い、中篇と言っていい分量の作品だが、ちいさな笑いや悲しみを人物たちと共有してきた読者は、ここに辿り着いて、突きつけられる。強制収容所がいかに人間を破壊したか――マガダンの背負ってきたものの重さを知ってしまうのだ。実在したテノール歌手をモデルとしたその物語に耳を傾けるのはソーニャ。各篇に少しずつ、もっとも頻繁に登場してきた少女は、やがて作者同様アメリカに渡り、そこで医者になるという夢を果たす。
"クルチナ"という言葉が出てくる。日々の落胆といったものを越えた、実存的、運命的な消えることのない悲しみをあらわす――「たとえ幸福の絶頂にあっても、クルチナが去ることはない」。クセニヤ・メルニクという作家の美質は、そんな悲哀とユーモアが独特の仕方で同居していることにあると思う。不幸の直後になんの前触れもなく訪れる感情の高揚や、ふいに切り替わるひとの心の不思議。その底には、英語で書き、アメリカで暮らしながら、クルチナを抱き続けること――「二つの国を生きていること」が、あるのではないだろうか。

 (たにざき・ゆい 作家・翻訳家)

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