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死者と生者の間に生み出された物語

――奥野修司『魂でもいいから、そばにいて 3・11後の霊体験を聞く』

橘玲

「そもそもなんでこんなことを始めたのか?」というのが、私の最初の疑問だった。東日本大震災をテーマにした本はいくつもあるが、まさか霊体験とは思わなかった。
 じつはこの疑問は、奥野さん自身が本書の冒頭に書いている。きっかけは、宮城県で二千人以上を看取(みと)った在宅緩和医療の医師だった。その医師はがんの専門医だったが、自身が胃がんで余命(よめい)十カ月を宣告され、奥野さんと話したときはその十カ月がすでに過ぎていた。
 被災したひとの二割が幽霊を見たという数字を挙(あ)げて、医師は奥野さんに、霊と生者との物語を書くよう強く勧めた。だが当然のことながら、奥野さんは躊躇(ちゅうちょ)する。客観的に検証できない霊体験では、ノンフィクションとして成立しないのではないか......。
 しかしそれでも奥野さんは、自分でもよくわからないなにかに突(つ)き動かされ、重い腰をあげて東北に向かう。そこはオガミサマという、死者と交流できる女性霊媒師(れいばいし)がいまも受け入れられている土地だった。
 父母と死別した女性は、気仙沼のブティックで見ず知らずの客から、「どなたか亡くなりましたか」といきなり声をかけられる。「あなたは胃が弱いから胃の病気に気を付けろとお父さんが言ってます。お母さんは、ありがとうと言ってますよ」
 子どもを亡くした水道工の男性は、建て主の奥さんから「誰かそばに立ってるよ」といわれる。「男の子かなぁ? 悲しそうな顔で見てる。体壊(こわ)すから、そんなに無理しないでって言ってるよ」
 たしかにこれでは、ノンフィクションにはならない。オガミサマがほんとうに霊と話しているかを科学的に検証するのは難しくない。そしておそらく、物理法則に反することはなにも起きていない。
 現代の脳科学や心理学は、ひとが頻繁に記憶を書き換(か)えていることを明らかにした。たとえるなら、死者に会いたいと念じていると、霊となった死者が会いにくるのではなく、霊体験の記憶が無意識のうちに「捏造(ねつぞう)」されるのだ。
 しかし、記憶を書き換えているのはいったい誰だろう。それは「無意識」だが、フロイト的なおどろおどろしい欲望のかたまりではなく、文章を読み言葉を理解する知能を持っている。そのうえ、無意識が考えていることを私たち(意識)は知ることができない。
 意思と知能を持つ無意識は、私たちのなかにいる「もう一人の見知らぬ自分」だ。そしてこの何者かは、意識が世界を理解するときのように、論理や物理法則に頼ったりはしない。"それ"が生きているのは、神や悪魔、魔物や妖精、霊や妖怪が跋扈(ばっこ)するスピリチュアルな世界なのだ。
 私たちはみな、意識的・合理的な自己と、不合理でスピリチュアルな自己をもっている。親しいひとを失ったとき、意識では現実を理解してもこころでは受け入れることができないのは、スピリチュアルな自己が死を拒絶しているからだ。そしてこの隙間(すきま)から、霊が立ち現われてくる......。
 ここに、ノンフィクションになり難かった奥野さんの取材が、「ノンフィクション作品」として成立する理由がある。霊体験とは、意識的な自己とスピリチュアルな自己を結ぶ「物語」なのだ。
 奥野さんが聞き取ったのは、理不尽(りふじん)な死を突きつけられたひとたちが、かなしみのなかで生み出さざるを得なかったそれぞれの物語だ。そこにはさまざまな霊が現われるが、幼い子どもを失った親の物語に終わりはなく、その一方で、高齢の父母や長年連れ添った夫・妻はしばしば物語を終わらせるために現われる。
 東京で暮らしていた三三歳の女性は、震災の直後、陸前高田にいる安否のわからない祖母の夢を見る。不自由な足で杖(つえ)をつきながら津波から逃げようとしたものの、濁流(だくりゅう)に巻き込まれ恐ろしげな表情で水の中に浮かんでいた。
 それから彼女はずっと、大好きだった祖母を助けられなかったことを気に病んでいた。そしてある日、祖母が彼女の部屋にやってくる。
「ほんとうはなあ、怖かったんだぁ」と、祖母はいった。「でも、おばあちゃんは大丈夫だからね。心配しなくていいよ。みんなのことよろしくな」
 この物語を奥野さんに語ることで、彼女は祖母を送ることができたのだろう。

 (たちばな・あきら 作家)


奥野修司 『魂でもいいから、そばにいて 3・11後の霊体験を聞く』 978-4-10-404902-8

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