書評

2016年7月号掲載

ぼける前に読んでおきたい実用の書

――榎本睦郎『笑って付き合う認知症』

鹿子裕文

対象書籍名:『笑って付き合う認知症』
対象著者:榎本睦郎
対象書籍ISBN:978-4-10-350121-3

 僕はつい最近まで『宅老所よりあいのおもしろい雑誌 ヨレヨレ』という雑誌を一人で作っていた。変な雑誌だった。介護施設を舞台にしておきながら、介護の話がまったく出てこないのだ。じゃあ何が掲載されているのかというと、「宅老所よりあい」で起きるドタバタ話ばっかりである。職員の誰それがとてもくだらないことを言っているだとか、施設の代表が元代表とけんかしているだとか、子ども相手に光るおもちゃを売りつけて施設の運営資金を稼いでいるだとか、本当にあきれるぐらいどうでもいい話しか載っていない。連載タイトルも「うんこの水平線」だの「ぐるぐるチンチン」だの、だいたいそういうことになっていて、実用的な話はひとつもない。さすがにいつかは購読者から怒られるんじゃないかと僕も思っていた。
「これ作ってんのお前か? 頭おかしいんじゃないか?」
 ところが世の中というのは不思議なもので、四号まで作ったが、そういうお叱りの意見を頂戴したことは、ただの一度もなかった。むしろ「すみからすみまで三回読みました。次号もこの調子でお願いします!」という激励のお手紙とか、「わたしぃ、定期購読を申し込んでるんですけどぉ、もう歳が八十五歳なんでぇ、早く次の号を出してもらわないとぉ、わたしぃ、わたしぃ......」という催促のお電話とか、なんか妙に好評なのだ。最初は手売りで売り歩くつもりだったが、いつのころからか全国の風変わりな書店で売られるようになって、地元・福岡市の書店では十八週連続でベストセラーの第一位を獲得したりしていた。そんな『ヨレヨレ』に僕はこんなキャッチフレーズをつけていた。
 ぼける前に読んでおきたい――。
 世の中の大半の人は、ぼけるとろくでもないことが起きるに違いないと、なんとなく不安に思っている。『ヨレヨレ』はそんな人たちに「ぼけても全然大丈夫ですよ。こんな暮らし方をすることだってできますよ」ということを笑いを交えながら伝えていた雑誌だったが、「ぼけたくない」という人にはあまり役に立たなかったのではないかと思う。

 さて。これから紹介する書籍は「ぼけたくない人」が「ぼける前に読んでおく」といいかもしれない本である。こちらはとても役に立つ実用の書であり、指南書でもあるので、どうか安心してお読みいただきたい。間違っても「うんこ」とか「チンチン」とか出てこないし、お年寄りがまんじゅうを投げてけんかするような話も出てこない。著者は認知症治療に多くの実績を持つ専門医だ。東京都調布市にある「榎本内科クリニック」で認知症患者の診療に当たられている。この榎本先生は「認知症+介護=暗い」というイメージがあまりにも強いものだから、「そんなことないのになぁ」と医師の立場から見てきた「認知症治療と介護の世界」を正直に描き出そうと試みる。明るくフラットな視線。不安を煽ろうとしない姿勢。専門的になりがちな話も、頭に入りやすい章立てと、わかりやすい解説でズンズン進んでいく。
 認知症になる原因。かかりつけ医のメリット。スムーズな受診のコツと早期発見の重要性。処方される薬の種類とその効用についての正しい知識(とても大事)。介護保険の申請で失敗しない方法。息抜き介護のススメ。施設入所や看取りについてのアドバイスなどなど。
 話し言葉で書かれた平易な文章は、とても読みやすくて敷居が低い。初めてこうした世界に触れるという人にも「認知症についての基本的な知識」がすらすら入ってくる。「榎本内科クリニック」の診察室で直接話を聞いているような感覚だ。また、認知症がもたらす特有の混乱に「どう付き合えばおたがい幸せになれるか」についての記述もあるから、これから介護が始まりそうな人も一読しておいて損はない。
 認知症関連の本は、暗い気持ちになるタイプの本もたくさん出版されている。ばくぜんとした不安を抱えていると、ついついそういう本に手が伸びそうになるものだ。しかしウィルスに感染したくない人が、うがいや手洗いでそれを防ごうとするように、目に見えない「やばいパワー」に負けそうになったら、一度頭の中を精製水ですすいでおくといいのかもしれない。とにかく転ばぬ先の杖は、まず正しい知識を持つことからだ。正しい知識はいつだってフェアで良心的な声で語られる。この本にはそんな声がちゃんとある。そしてその声が福音となって届く人も、きっとどこかにいるのだ。

 (かのこ・ひろふみ 編集者)

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