書評

2016年5月号掲載

闇の中の自由という光

――松沢呉一『闇の女たち 消えゆく日本人街娼の記録』(新潮文庫)

花房観音

対象書籍名:『闇の女たち 消えゆく日本人街娼の記録』(新潮文庫)
対象著者:松沢呉一
対象書籍ISBN:978-4-10-120456-7

 セックスをしてお金をもらったことがある。分別がつかないほどに若くもなかったし、実際にそういう状況になったら死にたくなるほど絶望するのではないかと思っていたけど、全く逆だった。自分のような女でもお金をもらう価値があるのだと知って、解放されたのだ。それまで私を雁字搦めにしていた、劣等感や、私みたいな醜い女など死ねばいいという卑屈で自虐的な感情や、自分を苦しめた男という存在への憎しみが消えはせずとも薄まった。セックスでお金をもらうことにうしろめたさや罪悪感は確かにあったけれど、それ以上に、自分で自分を縛りつけていた鎖から解き放たれた。
 物語の中では娼婦は可哀想で無力な存在として描かれることが多い。たいてい娼婦を主人公にした物語は悲劇だ。確かにそういう女性もいるだろうし、悲惨な物語もあるだろう。けれど、その一部分だけで娼婦について語られることに、いつも違和感を感じ苛立ちもする。

 長年、風俗嬢たちとも実際に関わり続けてきた著者の新刊『闇の女たち』の前半は貴重な街娼インタビューで、後半は街娼の歴史が描かれている。
 遠い昔の時代から、男たちは女たちを求め、吸い寄せられるように街娼のいる街に訪れ続けた。どうして男は女を、時には男を買うのか。ただ射精したいだけならば自分で処理すれば済むことだ。けれどそれだけでは埋められない切実なものがあるから男たちはその場所へ来る。そんな切実さを抱く男たちを迎える娼婦の存在こそが、赦しであり、安らぎであり、明日を生きるための糧にもなる。それは家族や恋人では与えられない救いだ。
 本書には今はもう日本では見かけることも少なくなった女たちの存在の証拠が、インタビューとして記録されている。私は彼女たちの声が、自分を赦す声に聞こえた。私だけではない、不条理で、時には暴力的なほどの、死ぬまで逃れられない性の欲望に囚われた人間を受け入れ赦す存在が娼婦なのだと本書を読んで思った。
 娼婦は決して可哀想な存在でもなければ、男の欲望の犠牲者でも奴隷でもない。ただ彼女たちは生きるために娼婦になった、それだけだ。そして彼女や彼らを必要とし、訪れる男たちが確かにいた。
 今の時代でも、この本の第二部に詳しく書かれている事例が繰り返され、性風俗に関わる女性たち全般を、まるで被害者であるかのように決めつけ、彼女たちの仕事を奪い、男という存在や性欲そのものを悪に仕立て上げようと糾弾する人たちは少なからずいる。
 娼婦を主人公にした悲惨な物語を読む度に、性風俗は悪だと叫ぶ人たちの声を聞く度に、私は大声で叫びたい衝動にかられる。だって私は、あのとき、自由になったもの、解放されたもの、生きようと思うことができたもの――と。
 私は私の欲望も、女に生まれてきたことも、悪だと、間違っていると思いたくはないし、男を憎みたくもない。

「自分が選ばれたとか、自分に魅力があるんだって思えて自信もつく。錯覚だとしても、それで自信がついて強くなれるんだよ」――これは本書の中に登場するある街娼の言葉だ。まさに、私があのときに得て、今も縋りついている「自信」の正体がここにある。
 本書に登場する街娼たちの中には、自分の人生を「楽しかった」と言い切る者もいる。幸せとは、自分が選択した道を生きていくことだと彼女たちの言葉に教えられる。それがまさに「自由」ではないだろうか。

 タイトルの「闇の女」という言葉は街娼を意味し、「この言葉を使用したのは、焼け跡時代の街娼がもっていた『自立・自由・抵抗』といった特性をもう一度とらえ直したいとの思いからである」と、著者は書いている。この本が多くの人に読まれることにより、窮屈な現代で迷う人々が、広く豊かな心を手にいれ、闇の中で光を見つけ、たくましく自由に生きる道しるべになればいいと願う。

 (はなぶさ・かんのん 作家)

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