書評

2016年3月号掲載

つかこうへい、ふたたび

――長谷川康夫『つかこうへい正伝 1968-1982』

樋口毅宏

対象書籍名:『つかこうへい正伝 1968-1982』
対象著者:長谷川康夫
対象書籍ISBN:978-4-10-102091-4

 僕がつかこうへいのことをどれぐらい好きか、語りだしたら止まらないと思う。
 直木賞受賞作『蒲田行進曲』が日本アカデミー賞を総ナメにし、社会現象を巻き起こしていた頃、僕はまだ小学五年生だった。つかこうへいは少し上の世代から絶大な支持を得ている印象があった。

 成長して、頭の悪い大学に通うようになると、つかさんの著作にハマり、古本屋で角川文庫から出たものはすべて買い漁った。九〇年代前半にして、つかさんの傑作群はすでに手に入り難くなっていて、事実、僕のまわりでつかさんの話ができる同年代はひとりもいなかった。
 遊び方を知らず、友達もいない。真夜中に部屋で膝を抱えていた。つかさんは人間が生まれながらにして持つやるせない悲しみや痛みを笑い飛ばすことで、どこまでも僕を救ってくれた。

 どれだけ影響を受けてきただろう。大学の卒論はつかさんのセリフや世界観をトレースしたオリジナルの脚本だったし、作家デビュー作の『さらば雑司ヶ谷』はもちろん、『日本のセックス』『雑司ヶ谷R.I.P.』などのあとがきに、つかさんの名と高著を記してきた。『ルック・バック・イン・アンガー』に至っては、未亡人と愛原実花さんから訴訟もあり得るのではないかというほどパクった。
 他にも現在進行形では、水道橋博士(この人もつかへい信奉者だ)のメルマ旬報で「ひぐたけ腹黒日記」という、虚実綯い交ぜのエッセイを連載していて、これなんか完全に『つかへい腹黒日記』のオマージュだ。
 それだけに、演出する舞台に何本も足を運んでおきながら、遂に御本人にお会いできなかったことと、拙著の帯の推薦人になってもらえなかったことは、忸怩たる思いとして一生消えないだろう。
 二〇一五年終わり、つかさんの評伝が出ると聞いたときは、一瞬にして血が沸騰した。しかも書き手は、つかさんの著作に数え切れぬほど登場してきた長谷川康夫さんだというじゃないか。

 前述した『つかへい腹黒日記』では、アリスの解散ライブを口を開けたまま観ているのをスッパ抜かれて、「アホは一生アホのままだ」と書かれていた、舞台『蒲田行進曲』で共演した風間杜夫からは「早く大人になってもらわなきゃ」と揶揄された「お調子者・長谷川」。期待するなという方が無理だった。

 そのため、五〇〇ページに及ぶ大著を手にしたときは、「長い長い解答の一端がこの一冊に詰まっているのだ」と思うと、ページを捲る指先が震えたことを告白しておく。
 実際、遅れてきたつかマニア世代には、いくつもの驚きがあった。つかと著者の鮮烈な出会いに始まり、話に聞いていた人格否定の演技指導(低学歴の劇団員を悪しざまに罵ったり、三浦洋一が主役の舞台を本番当日に降板されたりなど)、ハッタリ屋で繊細、気難し屋の絶対君主ぶりが次々と明かされていく。

 何より痛快に感じたのは、つかさんの生前から、その出自と逆説の発想を情緒的に関連づけたがる評論が巷に溢れていたが、それらを悉く否定していたこと。ペンネームの由来が「いつか公平」からだと、都市伝説レベルで信じられていたものだ。

 他にも『蒲田行進曲』のヤスが長谷川康夫から取られていたこと、つかさんの奥さんが元劇団員だということも本作で初めて知った。こうしたマル秘エピソードに留まらず、舞台という、生き物であり一瞬の夢の裏側が余すところなく語られる点が本著の最大の意義だろう。
 現在、つかこうへいの評価は不当なまでに低い。つかさんの懐刀にして、今なお複雑な感情を持ち続ける著者による評伝にして青春記が、つかこうへいを再び時代のど真ん中に押し上げてくれると信じたい。

 (ひぐち・たけひろ 作家)

最新の書評

ページの先頭へ