書評

2015年12月号掲載

つかこうへいとその作品の突出した魅力

――長谷川康夫『つかこうへい正伝 1968-1982』

岡野宏文

対象書籍名:『つかこうへい正伝 1968-1982』
対象著者:長谷川康夫
対象書籍ISBN:978-4-10-339721-2

 さて、『つかこうへい正伝 1968-1982』です。「つかこうへい宣伝」ではありませぬ。「正伝」、正しく伝えること、ですな。
 何が正しいのかと言いますと、「つかこうへいが最もつかこうへいらしかった」68年から82年に時代を区切って、その作品と人物をつぶさにお話ししようという試みです。言いかえると、後年の、アイドルをヒロインに迎えて華々しく、かつ大向こうを狙って繰り広げた『飛龍伝』の彼の姿は、いまいちほんとうのつかとはズレてるなあ、というわけです。演劇雑誌の編集者として、少しばかりお付き合いさせていただいた私も、これには全面的に賛成であります。つかこうへいの強烈なキャラクターと、作品の驚嘆すべきエネルギーと、これらはみなその時代に確かに凝縮されていました。
 つかこうへいさん、ほんとに激烈でした。
 たとえばこういうことがあります。人に優しくしていると、そんな自分がだんだん癪にさわってきて猛烈にイジメ出す。もっと言うと、優しくしている自分に腹が立ってくるその自分がたまらなく愛しい。さらに、その愛しさが恥ずかしくすらあり、しかも恥ずかしい自分が耐えられない。てな具合にしとどに折れ曲がって複雑な人格が、一部の人間に時としてあるものです。まったく苦しい。
 このままの屈折をつかが抱えていたかどうかは分かりませんが、少くとも、役者に向かってよく口にしていた、「お前が面白いんじゃねえ、オレが面白いんだ」なる言葉は、複雑に七曲がりを呈した彼の性格を表しています。
 そうした、はたからは理解を絶する、呆れるばかりの、狂気にも似た人格が本書にはしっかりと焼きつけられているのです。なにしろ著者の長谷川氏は、俳優として、つかの原稿アシスタントとして身近に接していたかたで、明瞭この上なくそのあたりの事情を心得ているからです。
 もうひとつ、長谷川氏は、つか作品のすごさも、批評家と記述者の両方の視点を持ちながら、読み手のところへ、あやまたず送り届けてくれます。
 読んでいると、つかこうへい作品のおびただしいばかりの魅力の突出は、言葉の操りにあるのだと、分かってくる寸法になっています。セリフが跳ねるように、跳ねながら疾走するように、疾走しつつえぐるように。つかはそんなふうに言葉を刻み続けました。
 本書の中から引用すれば、『ストリッパー物語』という作品の、ヒモのシゲが一座を出て行くシーンで、貯金箱に貯めたわずかばかりの金を、ストリッパーの明美に差し出すと、
 明美 ......貯め込んだね......煙草のお釣り、くすねてたね......こないだ財布の五百円なかったの、あんただね......なんでそんなネズミみたいなマネするんだよ。ゼニ欲しかったら、ゼニくれって言やぁいいじゃないかよ。
 シゲ くすね、くすねて、大の男が五年がかりよ。一日中、十円玉握りしめて、手の内、汗びっしょりよ。辛かったねぇ、我ながら。......俺は掛け値なしに申し分のないヒモよ。おまえがよ、好きな女でも抱いて来なって、大枚はたいてくれたときは嬉しかったね。ほんと嬉しかったよ、俺。涙が出るほど嬉しかったよ。俺はこの界隈で出来すぎたヒモよ。
 日常語を使いながら、その組み合わせ方によって、日常を越えて凝縮されたドラマに、見事にタッチしてみせています。
 さらにもうひとつ。巷間囁かれる、つかこうへいのペンネームが、「いつか公平」のアナグラムだという説にも長谷川氏は異議を唱えています。もっともでしょう。つかは、その作品で、平等など一度も訴えませんでした。むしろ、虐げられるのが嫌なら、力をつけて虐げるものになれと言っていたと思います。ただし、虐げるものが幸せとは限らないとも。あなたはこの本を読んで、つかこうへいという人間に、驚き呆れ、笑い、そして打たれるに違いありません。

 (おかの・ひろふみ ライター)

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