書評

2015年12月号掲載

親の呪いが解けるまでを描く「魂の冒険=探偵小説」

――姫野カオルコ『謎の毒親』

千野帽子

対象書籍名:『謎の毒親』
対象著者:姫野カオルコ
対象書籍ISBN:978-4-10-132125-7

 主人公の〈私〉日比野光世は〈痛ましい目にも遭わず、酷(むご)たらしい目にも遭わず暮らして〉きた。近畿地方の小さな町Q市で高校卒業まですごした両親との時間を回想してみても、一般に想像しがちな機能不全家族の身体的暴力は、たしかに見当たらない。
 けれど〈私〉は物心ついてから十数年のあいだに、〈両親と私の三人で暮らした家で、へんな出来事にたびたび遭遇〉した。親たちは、現在思い返しても不可解な、まったく理解に苦しむ行為をしてきた。親もとを離れて二十余年、両親を相ついで亡くした〈私〉は、それまで考えることを避けていた数々の謎に、改めて直面するのだった。
〈私の両親は〔...〕暴力をふるったわけでもありません。〔...〕ただ、私はわけがわからないのです〉
 空き壜や包み紙や破れたストッキングを捨てない。家に出没するゴキブリやナメクジにたいしておそろしく平気。娘が〈オムニバス映画〉という言葉を使っただけで土下座を強要する。『ガラス玉演戯』の作者がヘッセだと言うと、いきなり叱責し、フローベールだと「訂正」された。
 娘が小学校最後の運動会の競技で一等賞をとったと報告してきたというのに、父は〈よほど足の遅い者たちと走ったにちがいない。くだらない〉と一蹴し、母は母でまったく関係ない自分の不満を嘆くのに手一杯で、一等賞など知ったことではないと言わんばかりだった。
 一家三人で出かけた都会のレストランで、食後にトイレに行って帰って来たら両親がいない。長い時間待った末に戻ってきた母は、〈あんたがタクシーに乗って駅まで行ってしまったから、わたしたちは駅まで追いかけたんじゃないの〉となんの証拠もなく決めつける。なぜそう思ったのか? 一二歳の〈私〉は〈お金も一円も持っていない〉というのに。
 不条理で、ほとんどシュールと言ってもいい、不可解な行為や習慣の数々は、〈ずっと謎で、今でも謎です。ただし、どれもみな瑣末(さまつ)なことです〉。〈私は親を糾弾したいのではないのです。謎を解きたいのです〉。
〈人気になる家族CMというのは〔...〕お父さんの不器用だったりダメだったりするところや、家族がぎくしゃくしたところを見せて「一捻(ひとひね)り入れてジンとさせちゃうよッと」という演出が全開のものばかりです。絆を断ちたい人のCMも作れ。みんな何を広告代理店にだまされているんだ〉
 こんな世のなかだから、親の不条理を言語化しようとする人を、聞き手はしばしば〈自分の親のことをそんなふうに言うものではない〉などと再抑圧することが多い。
 しかし幸運なことに、亡き両親の呪いから脱しようとするもう中年の〈私〉を、古書店・文容堂の人々は穏やかに冷静に支える。彼らが、〈私〉の少女時代のライフストーリーにちりばめられた数多くの謎に挑むのだ。
 と書くとなんだか安楽椅子探偵が「日常の謎」を解くタイプの「本格」探偵小説のようだが、ちょっと違う。文容堂書店の人々は探偵でもなければカウンセラーでもない。ある謎はうっすら解け、ある謎は不可解なまま残る。しかし親の不可解な言動・習慣にたいして、筋のとおった説明を与えられるかどうかは、この小説では大きな意味を持たない。
 そうではなく、〈私〉が文容堂書店の人々に向かって心を開き、自分の違和感を違和感として直視できたことが、〈私〉にとって(読者にとっても)なにより有意義だったと思う。
 最終章は、少女時代の〈私〉が親もとからどうやって脱出=上京したかを報告し、まるで冒険小説のようにドキドキさせる。エピローグでは、内なる「毒親」との対決をひとまず終えた現在の〈私〉を描いている。〈私〉はみずからの魂を守りとおしたのだ。昂奮して読み終わったら、現実を見る目が少し違っていた。読む前の世界にはもう戻れない。そして僕までなにかずいぶんと晴れ晴れとしていた。僕のなかの毒も少しは出て行ったのか。本書のデトックス効果は高い。
『謎の毒親』は、アダルトサヴァイヴァー本にありそうな「親の因果が子に報い」的な煽情性からもっとも遠い。記号的なわかりやすさから遠ざかったからこそ、おそろしいまでの説得力をもって読者を勇気づけてくれる。

 (ちの・ぼうし 俳人、文筆家)

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