書評

2015年9月号掲載

大きな死と小さな死と、そして

――高橋弘希『朝顔の日』

高橋源一郎

対象書籍名:『朝顔の日』
対象著者:高橋弘希
対象書籍ISBN:978-4-10-337072-7

 高橋弘希は、デビュー作の『指の骨』で、「前の戦争」での戦いを、南方の島のどこかで死んでゆく兵士を、描いた。なぜ、戦後三十年以上もたって後生れた世代である作者が、そのような作品を描いたのかが、論議の対象になったことは記憶に新しい。『指の骨』は、「戦争の記憶」がない世代が描いたとは思えないほど、「戦争」が克明に描かれ、もしかしたら、「戦争」を描くために「体験」は必須ではないのかもしれない、と思わせた。だが、同時に、その作品の核にあるものが何なのか、わかりにくかったのも事実だろう。だからこそ、「次」の作品が待たれていたのである。
『朝顔の日』もまた、その舞台を「前の戦争」に置いた。だが、この作品で描かれるのは、「戦場」ではなく、「銃後」の世界である。すでに、世界は「戦争」の影におおわれている。いま、目の前に「戦争」の姿はないが、少し離れた場所では、戦闘が行われていることを、この小説の登場人物はみんな知っているのである。
 その「戦争」という「大きな死」を背景にして、『朝顔の日』で描かれるのは、主人公・凜太の妻・早季が罹患している「結核」だ。早季は、結核患者として入院し、凜太は、病院へ通い続ける。その日々が、繊細な手つきで描かれてゆく。その頃、「結核」は「死の病」であった。迫り来る確実な死という点では、「戦争」という「大きな死」も、「結核」という「小さな死」も、ほとんど意味に変わりはなかったのである。
 いや、違う。この小説では「小さな死」の、その「小ささ」こそが、徹底的に描かれている。医者は、妻の早季に(同時に夫の凜太に)、「息切れや動悸のするような歩行は厳禁です。平素の歩く早さを“十”とするならば、“三”の速さで歩いてくださいな。」と忠告する。だから、凜太は妻に合わせて「“三”の速さ」で歩くのである。
 わたしたちは、ふだん「“十”の速さ」で歩いている。いや、「“十”の速さ」で生きている。生きるということは、「“十”の速さ」に合わせることだと思っている。だが、ある瞬間、「“三”の速さ」で歩かねばならなく(生きねばならなく)なるのである。「“三”の速さ」で歩くと、どうなるか。「“十”の速さ」で歩いていたときには気づかなかったものに気づくのである。

「この病は、心の線に触れることがあるそうですから。」
「神経のようなものかい?」
「何かの気配のようなものを、感じてしまうことがあるそうですよ。」

 会話はすべて筆談になった。…中略…
 言葉を自由に使えないというのは、不便ではないかね?」
 妻は少し考えた後に、鉛筆を走らせる。
 ――紙に書いたことも、屹度、言葉でせう。

 死の淵に一歩ずつ近づきながら、「“三”の速さ」で歩く妻は、「心の線に触れ」「鉛筆を走らせる」存在になる。そのような存在を、あえて「作家」という必要もないだろう。夫・凜太は、病の必然として「言葉」に魅せられてゆく妻・早季と歩みを共にしながら、同じ経験に巻き込まれてゆく。いや、同じ存在になってゆく。
 小説の終わり近く、患者のひとりで強い印象を残していた「村田」が亡くなり、夫と同じ名前を持つ「凜太郎」少年が亡くなり、別の女性患者も亡くなる(中国戦線へ送られていた、友人の五味も戦死する)。妻・早季もやがて亡くなるであろう。それらはすべて「小さな死」だ。「戦争」が生み出す「大きな死」の中では、個人の死は、他と区別のつかない無数の死の一つにすぎない。そのことを知って、作者は、それに、「小さな死」を、「固有名」を持つ、かけがえのない一つの死を対置するのである。まるで、それだけが、人間に残された「戦争」に抵抗する唯一の手段であるかのように。

 (たかはし・げんいちろう 作家)

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