書評

2015年8月号掲載

「原子力村」の深奥から届いた黙示録

――藤原章生『湯川博士、原爆投下を知っていたのですか
“最後の弟子”森一久の被爆と原子力人生』

竹田圭吾

対象書籍名:『湯川博士、原爆投下を知っていたのですか “最後の弟子”森一久の被爆と原子力人生』
対象著者:藤原章生
対象書籍ISBN:978-4-10-339431-0

 戦災や事故で家族を失った人は必ず問うだろう。巻き添えになることは避けられなかったのかと。そして、運命だったのだと諦めて自分を納得させる。
 しかし、実は命を救う方法があったと知ってしまったら? その方法が自分の目の前を通り過ぎていたとしたら?
 京都大学で物理を学んでいた夏、森一久は帰郷した広島で原子爆弾の投下に遭って父と母を失い、自身は九死に一生を得た。それから55年後、森は同郷の同窓生が原爆投下の3カ月前にある教授から「広島に新型爆弾が投下される」と聞かされ、家族を疎開させていたと知る。しかもその場には森の指導教員である湯川秀樹博士も同席していたという。
 湯川博士は原爆投下を知っていたのか。なぜ自分には教えてくれなかったのか。戦後、森は湯川の勧めに従って科学ジャーナリストとなり、黎明期にあった日本の原子力発電を監視する立場から、やがてシンクタンクの原子力産業会議の職員に転じる。ついには政官民に人脈を張り巡らす「原子力のドン」と呼ばれる存在になったが、それは湯川の「贖罪(しょくざい)」の気持ちに導かれてのことだったのか。
 毎日新聞記者の著者は湯川博士の記事を書くために森と出会う。そして森とともに湯川博士についてのミステリーの真相を探るうち、被爆者でありながら核の平和利用の理想を追い、原子力村のインサイダーでありながら政府や電力業界を批判し続けた森の生涯と、そこに映された原子力史の別な一面に引き込まれていく。
 ポスト福島第一原発事故の世界に生きる私たちは、原子力村こそが災禍をもたらしたとみなし、原発をめぐる立場を推進と反対の二項対立でとらえがちだ。本書は、そう単純化できない力が推進側の内部で複雑に作用していたことを描き出している。その中心には、権威嫌いなのに権威の中枢に入り、右翼の大物や東電の幹部と渡り合いながら、湯川に託された「人類の幸福に尽くす原子力」を実現するためにもがいた森一久という人物が存在した。
 50年代から84歳で他界する2010年まで、森は行政や産業化のあり方を厳しく問い続けた。その言葉と姿勢は、福島第一原発事故と思い合わせるとあまりに黙示録的だ。
 すべての情報を偽りなく国民に公開しつつ、輸入ではなく日本独自の研究を積み重ねていくべきだというのが湯川博士の考えであり、森の考えだった。原子力施設の設計管理を電力会社が担うことの危うさを懸念し、全電源喪失に備えた電源車の配備も提言していた。事故時の賠償を国家が法律で担保することの重要性を60年代から唱え、自身の被爆の経験から低線量被曝についての偏見にも敏感だった。
 とはいえ、本書は森について単純な人物評価は提示しない。
 著者はローマ駐在時代に著した『資本主義の「終わりの始まり」』で、2010年に起きたユーロの財政危機を地中海圏の文明論的な視点から考察している。その中で著者は、事故で急逝したギリシャの映画監督の謎めいた言葉を、資本主義社会の暗転を示唆した予言と受け止めた。
 99年に東海村で起きた臨界事故を機に森が突然日記をつけ始めたのも、後世の人々への警句だったのだろうと、著者は書く。一方で、森は「日本の原子炉の安全度が高いことは間違いない」「(原爆を経験した)日本人は平和利用に取り組む資格のある民族かもしれない」とも発言している。本書を原子力村の掟に立ち向かった男の英雄譚として読むか、妥協と挫折の物語として読むか、文明論のレンズで視た科学の悲劇として読むかは、読者に委ねられている。
 そもそも原爆は、戦後間もない頃の日本の科学者にとっては「すごい」「科学の成果」という感嘆の対象でもあったことが本書で紹介されている。つまるところ、森は「被爆者であるにもかかわらず」ではなく、被爆者であるからこそ原子力の平和利用に執念を燃やしたというのが、著者の仮説だ。
 原爆投下を知っていたのですかという問いの裏には、命を救う方法が見過ごされることが許されるのか、という問いが隠れている。なおも私たちが原子力と共存していくことを考えたとき、森が遺したものの重さを感じずにはいられない。

 (たけだ・けいご ジャーナリスト)

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