書評

2015年6月号掲載

生命の本質に肉薄するドラマ

――ジェームズ・D・ワトソン他『二重螺旋 完全版』

青木薫

対象書籍名:『二重螺旋 完全版』
対象著者:ジェームズ・D・ワトソン著/アレクサンダー・ガン ジャン・ウィトコウスキー編/青木薫訳
対象書籍ISBN:978-4-10-506891-2

 本書の著者、ジェームズ・ワトソンという人物をご存知だろうか? そんな名前に聞き覚えはないという人でも、DNAなら知っているだろう。
 それは、生命現象の鍵をにぎる物質。一九五三年、ワトソンはフランシス・クリックとともに、そのDNAの二重螺旋構造を発見した科学者である。そして六二年、ワトソンとクリック、さらにDNAのX線構造解析において重要な仕事をしたモーリス・ウィルキンスは、その功績に対してノーベル賞を授与された。ノーベル賞受賞から六年後の六八年には、ワトソンはDNA構造発見までの経緯を綴った著作、“Double Helix”(二重螺旋)を発表する。その作品は、世界的なベストセラーになるとともに、科学界には大きな波紋を広げることになった。
 ここまで説明したところで、「ノーベル賞のメダルを競売にかけた学者か」と、昨年末のニュースを思い出した人は少なくないだろう。落札したロシアの富豪が、メダルはワトソン本人に返却すると発表した、あのニュースである。
 競売報道の後、いやそれ以前より、ワトソンはメディアから攻撃の対象となってきた。ネットで彼の名前を検索すると、「嘘つき」「人間として最低」という書き込みまで見つかる。「二重螺旋構造の発見はパクリ」と断言しているサイトもあり、私も彼を聖人とは思っていないが、どうしてそこまで言われるのか、驚いてしまうほどだ。
 ワトソンが悪者とされる背景には、女性研究者ロザリンド・フランクリンの存在があった。先ほど“Double Helix”が「科学界には大きな波紋を広げることになった」と述べたが、とくに、彼女の描写が失礼だとして非難されたのである。
 さらに事態を悪化させたのは、フランクリンの友人であるアン・セイヤーが、重大な事実誤認を含む『ロザリンド・フランクリンとDNA』を発表したことだった(邦訳タイトルにはさらに「ぬすまれた栄光」という煽情的な副題がついていた)。この本の刊行以来、あたかも伝言ゲームのように誤解がふくれあがり、ワトソンはフランクリンを無能な科学者として描いたとか(それはまったく事実と異なる)、ワトソンは彼女の研究を盗んだ泥棒だという話がまことしやかに増幅されていった。彼女が若くして亡くなったこともあり、「ワトソン=悪代官」、「フランクリン=悲劇のヒロイン」のような構図ができあがってしまったのである。
 しばらく前だが、私は既存の邦訳書『二重らせん』(講談社文庫)を原文対照で読みなおす機会があり、いくつか重要な部分での原文との食い違いや、誤解を生む原因になりかねない、ワトソンに対する印象の大きな違いに驚愕したことがあった。同時に彼の筆運びの巧みさにも衝撃を受け、この作品が破格の魅力を持つことに改めて気づかされたのである。
 そこに思いもよらぬ幸運が訪れた。アレクサンダー・ガンとジャン・ウィトコウスキーの編集による、『二重螺旋 完全版』の翻訳依頼である。
 ガンとウィトコウスキーは、新たに発見されたクリックの書簡(主な文通相手はウィルキンスだった)を調べるうちに、ワトソンの記述が、当時の状況を実に正確に反映していたことに感銘を受けたという。そして、クリックの書簡だけでなく、同時代人たちの証言や資料をできるかぎり集めてみたいと考えるようになり、科学あり、歴史あり、「ゴシップ」ありの興味深い注釈を膨大に加えて、「完全版」が誕生した。
 ワトソンは当初、本書のタイトルとして「正直ジム」を考えていたという。自分の見たこと感じたことを正直に書けば、波風は立つかもしれないが、あえてそうした。科学の現場で何が行われているのか、それを知らしめようとした彼の意図も、「完全版」によって確信することができる。これにより、本来の『二重螺旋』が鮮やかに現代に蘇ったといえよう。
“Double Helix”は、生命科学の激動期を活写する傑作だ。そこには悪代官や悲劇のヒロインは誰一人存在しない。ワトソン、クリック、ウィルキンス、そしてフランクリンと、登場人物全員が躍動感にあふれ、生命の本質に肉薄するドラマが繰り広げられている。

 (あおき・かおる 翻訳家)

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