対談・鼎談

2015年6月号掲載

新潮文庫『日本文学100年の名作』完結記念座談会

100年の文学宇宙

池内紀 × 川本三郎 × 松田哲夫

新潮文庫創刊100年を記念した、全10巻のアンソロジー、『日本文学100年の名作』。1914年から2013年までに発表された国内の短編小説を、145編収録。およそ1000編を読んだ(!)編者のお三方が明かす、編集の裏側とは――。

対象書籍名:『日本文学100年の名作 第10巻 2004―2013 バタフライ和文タイプ事務所』(新潮文庫)
対象書籍ISBN:978-4-10-127441-6

二年間の軌跡

松田 去年の夏から刊行を始めたアンソロジー『日本文学100年の名作』も、いよいよ最後の第10巻が発売されます。

川本 編者のご依頼をいただいたのが一昨年の春だから、丸二年ですね。

池内 出来上がった全10巻を仕事部屋の本棚に並べてみたんですね。そうしたら、約20cmありました。片手を開いたときの、親指から小指の間くらいの幅。

川本 測ってみたんですね(笑)。

池内 この20cmのために、この二年やってきたんだな、と(笑)。20cmのなかに100年間の日本文学が入ってる。人間の頭って、だいたいぐるりと50〜60cmくらいでしょう? 50cmの中に、世界の歴史や日本の文化や、好きな人のこと、家庭のいざこざなんかも全部入っていて、処理しているんですよね。宇宙みたいなものです。それと同じように、この20cmに100年の「文学宇宙」があるのかなと思います。

川本 近代文学を読み直すいい機会になったし、現代作家は知らなかった方も何人かいましたから、こういう作家がいたのか、と私なりの発見もありました。例えば、「春の蝶」(10巻)の道尾秀介さんには、あれからハマった! 『光媒の花』『花と流れ星』『透明カメレオン』……、次々読んでいます。

松田 これまでたくさんのアンソロジーを編集してきましたけれど、物故作家が多かったんです。物故作家の作品と現代作家の作品はまったく別のものと捉えていたところがあります。だけど、このアンソロジーのために読んでいくなかで、地続きの流れのようなものが存在するのだと思いました。この作家の作品は、こういうところから流れてきているんだな、というような。それでいて、時代によって小説の書かれ方が変わってきているようにも感じます。

川本 今までの近代文学はリアリズム、自然主義、私小説が中心になっていて、アンソロジーもそのあたりを核として編まれていたと思うんですが、近年それががらりと変わりましたね。現代文学は、ある種の幻想文学というか、日常のなかに幻想性が入りこんでくるものが増えてきました。これは私見では「ポスト村上春樹」ではないかと。村上春樹さんの登場が、今までの小説の流れを大きく変えたと思います。

池内 梶井基次郎「Kの昇天」(2巻)や幸田露伴「幻談」(3巻)は、近代文学でありながら一種の幻想ものですね。リアリズムを超えた、あるいはリアリズムを否定するようなものが内包されていて、それが非常に現代的。だから、今読んでもまったく古くない。

時代を越えてゆく作品

松田 このアンソロジーの編集のために、おそらく千編近くの短編を読みましたね。そのなかから協議して、145編を収録しました。どんな作品を収録したいか、判断基準のようなものはありましたか?

池内 この人にしか書けなかっただろう作品を、というのは自分なりの基準としてありました。作品は、その人の運命、宿命みたいなものですよね。テーマ、文体、時代の在り方、すべてにおいて、そのときのその人にしか書けなかった作品というのがある。大佛次郎「詩人」(2巻)なんてまさにそうです。コンパクトな分量のなかに、暗殺を決意した人間のすべてが入っている。「鞍馬天狗」や「赤穂浪士」を大衆小説の読者に向けて書き続けた腕があるからこそ書けた。手の技と運命が合わさって生まれた作品だと思います。

川本 けっこう異色作が入っているんですよね。あと、私小説に点が厳しかったですね(笑)。

松田 私小説系は、加能作次郎「幸福の持参者」(2巻)や小山清「落穂拾い」(4巻)などを収録しましたね。

川本 そう! 私小説でもほのぼの系はいいんですよね。尾崎一雄「玄関風呂」(3巻)とか。大事件が起きるわけでもなく、日常の小さなことを描いているんだけど、どこか浮世離れしていて……。ああいうのが好きです。

松田 短い分量のなかで、はじめと終わりで主人公が違う世界に立っていたり、違った人間になっていたり……、そういう作品に惹かれますね。辻原登「塩山再訪」(9巻)のように、軽やかな日常の話のように読んでいると、違う位相が見えてくるような。

川本 山梨県の塩山という、観光地でもない小さな町が、こんなに見事に浮かび上がってくる小説ってそうはないよねえ。

池内 よい短編小説って、何気なく始まって、そっと動き出して、気がついたときには動きが終わっているようなものが多いですね。

川本 文章も大事ですね。林芙美子(「風琴と魚の町」2巻)の文章は今も楽しめる。一方、現代的で平易な文章がよいというわけでもなくて、森鷗外(「寒山拾得」1巻)や永井荷風(「羊羹」4巻)の文章だって現代に残るんですね。

松田 時間の経過に耐えうるかというポイントはありますね。河野多惠子「幼児狩り」(5巻)には褪せない毒気があって、すごい作品は時代を越えてゆくんだなあと実感しました。

川本 「幼児狩り」もそうだし、桐野夏生「アンボス・ムンドス」(10巻)や髙樹のぶ子「トモスイ」(10巻)とか、女性の方が怖い作品を書くなあ。

池内 非常に感覚的でありながら、冷静なんですよね。

松田 女性作家の作品が、次第に増えていきますね。1巻では一人もいなかったのが、2巻で二人、3巻で三人、10巻では半分以上が女性作家です。

川本 女性の編者も入れたほうがよかったのでは? あと、子どもが主人公の作品が好きで、そういうものも結構選びましたね。岡本かの子「」(3巻)、安岡章太郎の「球の行方」(6巻)、藤沢周平「小さな橋で」(7巻)、宮本輝「力道山の弟」(8巻)など。子どもって得体の知れないところがあるでしょう?

池内 神に代わるような目で見ているときがありますね。このアンソロジー、川本さんの好みがかなり入りましたね(笑)。どれもいい作品です。

川本 そうなんですよ(笑)。宮地嘉六「ある職工の手記」(1巻)とか、長谷川如是閑「象やの粂さん」(1巻)とかね。あと新津きよみ「ホーム・パーティー」(9巻)も。これは、お二人の賛同を得られて嬉しかったなあ。

「解説」より面白い

松田 全作品の「読みどころ」を分担して執筆し、巻末に収録しています。

川本 現代作家は、他の作品を読んだことがない方も多くて、「読みどころ」を書くために何冊か読んだりしましたね。やはり一作だけで論じるのは難しいから。それで〆切に遅れちゃった(笑)。おかげで現代作家をもっと読んでみようという気になりました。

池内 えらいなあ。僕は外国文学をやってきたので、評価するときに前提がないのが普通なんですね。その作品から読み取るしかない。そういう訓練をずっとしてきたので、さほど苦労はしなかったけれども、読者にとってちゃんと「読みどころ」になっているかな、という不安はありましたね。「読みどころ」をつけるというのは、松田さんのアイデアだよね?

松田 読み方を規定してしまうのはよくないのかもしれませんが、僕たち編者はこう読んで、収録に至りましたよ、という筋道のようなものを示してもいいんじゃないかと思って。ある種の親切さというか。川本さんがその作家の立ち位置のようなものをきっちり捉えて書いてくださるのも見事でしたし、池内さんは、どこからこういう言葉を持ってくるんだろう?と思わせる独特の光の当て方をされるんですよね。そうすると僕なんか、書くことがなくて困っちゃう。

川本 和田誠「おさる日記」(6巻)は苦労されたでしょう?

松田 何を書いてもネタバレになる(笑)。現代作家だと、ご本人が読んでどう思うだろうか、なんて考えちゃいますね。

川本 俺そんなつもりで書いてないよ、なんて言われたらどうしようとか(笑)。

松田 こういうところに目をつけると、小説ってもっと楽しめるんだ、とお二人の原稿に教わったような気がします。「解説」ではないのが面白いですね。「読みどころ」を読んで、興味をもった作品から読んでみてもいいかもしれない。

定番じゃない傑作

池内 アンソロジーを編集する楽しみは好きなように構成できること。今回は作品の発表年で収録巻が決まるので、その点は少し窮屈に感じるかな、と心配していたのですが、結果的にそうはならなかったですね。年代が柱として後ろで支えてくれているので、落ち着いて読める。それでいて非常に個性的なシリーズになったんじゃないかと。

松田 三島由紀夫「百万円煎餅」(5巻)や吉行淳之介「寝台の舟」(5巻)といった、名だたる文豪の意外な作品が読める。

川本 定番じゃない傑作をたくさん収録できましたよね。

松田 かなりの読書家でも、読んだことのない作品が八割くらいはあるのでは。このアンソロジーに読者として出会いたかったくらいです(笑)。

 (いけうち・おさむ ドイツ文学者)
 (かわもと・さぶろう 評論家)
 (まつだ・てつお 編集者・書評家)

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