書評

2015年5月号掲載

『女たち三百人の裏切りの書』刊行記念特集

神々のたそがれ

――古川日出男『女たち三百人の裏切りの書』

高橋源一郎

対象書籍名:『女たち三百人の裏切りの書』
対象著者:古川日出男
対象書籍ISBN:978-4-10-306076-5

 アレクセイ・ゲルマン監督の遺作『神々のたそがれ』を見た。驚倒すべき作品だった。ストルガツキー兄弟のSF小説を原作としている、という。ほんとうだろうか。舞台は、地球より800年遅れた惑星。だから、そこは、ほとんど中世に見える。地球の、ヨーロッパの中世。そこにやって来た地球人は、800年進んだ世界から来た者故、「神」とされる。3時間近いこの映画に、ヨーロッパ中世が現前する。泥と雨と血と夥しい体液が溢れる。僧侶、貧乏人、汚らしい農民、くずみたいな兵士、そんな連中がかびた食い物をむさぼり、罪ともいえぬ罪で首を吊られ、矢を全身に射られて泥濘に倒れる。いままでのどんな映画を見ても「これは中世であろうと頑張っているのだな」としか思えなかった。そこにあるのは、どれも「中世に懸命に似せた世界」に過ぎなかった。だが、『神々のたそがれ』の舞台は、紛れもない「中世」だった。人々がまったく不条理に、突然、生命を絶たれる「中世」の世界だった。そうとしか思えなかった。なぜなのか。冒頭、「神」と目される主人公が眠りから覚める。そこは「中世」の世界だ。いや、そうではない。その「神」がさっきまで見ていた夢の続きではないのか。そうにちがいない。彼は地球からその惑星にやって来た。惑星かと思ったら「中世」だった。彼が知識として知っている「中世」にそっくりの世界だ。それはもしかしたら、「夢」ではないのか。それほどまでに露骨に「中世」であることこそ、それが「夢」の世界であることの証拠ではないのか。そんな「夢」を見ることができるのは、神だけなのだ。
 古川日出男の『女たち三百人の裏切りの書』を読みながら、わたしは、『神々のたそがれ』を見ていたときの名状し難い感覚を思い出し、震えた。「そこ」はどこだ。まず、なにか、物語の世界のどこか、だ。とりあえずは、『源氏物語』の、『宇治十帖』の世界の「近く」だ。「そこ」には、なにか、ものすごく禍々しいものが存在している。だが、その前に、なにかもっと明白なものがある。
「中世」である。紛れもない「中世」の世界が、そこにある。冒頭、三人の女が登場する。ひとりの女には怨霊が憑いている。聖が、その怨霊を呼び出す。すると、怨霊が姿を顕す。名を名乗る。「紫式部」と。どういうことなのか。なぜ、怨霊として「紫式部」が顕れたのか。それは、『源氏物語』の続編たる『宇治十帖』が贋物である、と訴えたいからだ。そして、本物の『十帖』を語り直したいからだ。かくして、この物語は動き始める。怨霊の語る、真の『宇治十帖』の物語として。読みながら、読者は、これが「ほんとう」であると感じる。では、なにが「ほんとう」なのか。それが、わからない。なかなか、わからない。わからないまま、物語は、進行してゆく。みんなが知っている『宇治十帖』が語られ始める。しかし、それは同時に、あの『宇治十帖』と少し異なっている。それと同時に、この国のあちこちで、怪異な、いや魁偉な物語が始まる。それは、東北奥州の武士の物語である。それから、北の異族たちが閉じこめられた孤島の物語である。それから、西海の海賊たちの中に出現した現人神の物語である。それらが、不気味に、怨霊の「紫式部」の新(?)『宇治十帖』を包囲し、それに近づいてゆく。近づいてゆくにつれて、禍々しさは、倍増し、冪乗してゆく。なんと「紫式部」は二人になり、三人になる。物語の登場人物が「こちら」に出現し、あるいはまた、この「物語る」行いの裏にあった陰謀が暴露される。その度に、この物語の発熱は進行してゆく。そのときだ。わたしたちは気づくのである。
「中世」が出現している。いままで、どんな「中世」のお話を読んでも、「ああ、これは中世のふりを一生懸命しているのだな」としか思えなかったのに、ここには、「ふりをしているのではない」中世そのものが、出現しているのである。
「中世」とは、歴史の一時代のことではない。神仏に魂を揺り動かされていた人たちが実在していた時代のことだ。古川日出男は、その「中世」を甦らせた。なぜ、それが可能だったのか。神仏に魂を揺り動かされるのと同じことをやってみせたからである。それは「物語る」ということだ。ただ「物語る」のではない。自らのたそがれが近づいていることを知った神々が見るような、鮮明すぎる「夢」のように「物語る」からなのだ。

 (たかはし・げんいちろう 作家)

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