書評

2015年3月号掲載

やがて繋がっていく物語たち

――エトガル・ケレット『突然ノックの音が』(新潮クレスト・ブックス)

本谷有希子

対象書籍名:『突然ノックの音が』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:エトガル・ケレット著/母袋夏生訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590116-5

 本書は、イスラエルの作家による三十八もの作品群からなる短篇集である。といっても、ほとんどは十枚にも満たない超がつくほどの短篇ばかり。ロビー。ミロン。エラ。ヨナタン……。まるで道行く人々のスナップ写真をランダムに収めたアルバムを眺めるような感覚だ。それでもケレット作品のどの登場人物達も強く印象に残るのは、そのわずか数ページのあいだに、やけにリアルな生の痕跡を残すからに違いない。
 たとえば、兵役を免除してもらうためにたった一度しか会ったことのない男と偽装結婚したオリットは、夫の訃報を訊かされるが、しばらくそれが誰のことなのか思い出せもしない。妻として死体安置所に確認に行く車の中で、やっと彼女は男と過ごした一日のこと、自分が彼を傷つけてしまった記憶が蘇る――どうしてあの時、私は彼の口の臭いに耐えられず吐いたりなんかしたんだろう。彼はいい人だったのに。あるいは、警備員に殴り倒されたボードゲーム開発者のゲルションは、目の前の大理石の床に埋められた石がGの形――自分のイニシャルの形をしていることに意味を見いだそうとする。きっとこのビルを建てた人間が、いつか自分がやって来た時、この悪意に満ちた街で招かれざる者の気分にならないように、と慮ってくれたお陰なのだと。他にも、自分を愛してくれるのは愛犬だけだと気づいてしまう男や、夫の葬儀の日、三時までに誰も来なかったらユダヤ料理の店をたたもうと決心して客を待つ老女などが出て来る。
 彼らの願いの多くは控えめで、ごくささやかなものだ(天使に世界平和を願って自分はグアバの実になってしまうような人物もいるが)。そこには、堪え難い肉体の痛みや、深々と負ってしまった過去のトラウマの気配はほとんどない。SFやファンタジー、なんでもありの自由な世界で、彼らが囚われているのはもっと些末なこと――ほんのちょっとのボタンの掛け違いのような後悔だったり、ふとした時に感じる、居心地の悪さだったりする。
 作者は、あえて大きな問題のない「普通の人々」に目を向けているのだろうか。ケレット作品の登場人物達の多くが、今いるこの場所がしっくりきていないと感じている。何かがうまくいっていない気が常にしていて、夢と現実のギャップに自分でも気づかないくらいうっすら傷ついている。作者の小説の語り口はくだけていて、だから知らずと、イスラエルにいようと日本にいようと、私達はお互い大差ないのかもしれないと思えてしまう。私だって自分が日々、何に悲しんでいるのか、どんな理不尽に傷ついているのか、よく分からない。その「感情」とも呼べない段階の「気分」のようなものを、作者は丁寧にすくい取っていく。ゲルションの、ギラドの、エラの抱える「心のしこり」のようなものを、私達も自分の中に確かに感じる。
 けれど深く共感するには、どの作品もあまりに短い。生きることへの痛みが垣間見えたと思った次の瞬間、もう別の誰かが向こうから歩いて来てしまうのだ。私が気に入った作品の一つ、「バッド・カルマ」に出て来る保険外交員オシュリは、客との契約中、若い男の飛び降り自殺に巻き込まれ、六週間昏睡状態に陥る。なんとか意識を取り戻し、彼の家族は大喜びするが、オシュリはその六週間がたとえようもない幸せに満たされていたことに後ろめたさを感じる。そして事故以来、妻や娘への愛情や個人的な執着が何もかも薄れていることに気づいたオシュリは、甘美な六週間を夢にみながら、こんなふうに独白する。「あの世界、そこに到達するためには、高いところからなにかが落下する必然性のある世界。すべてを矮小化する景観」。この小説集も、もしかしたら同じかもしれない。すべてを矮小化し、一人一人の物語を遠い景色のように並べることで、やっと、どこかへと到達するのだ。
 本書はそうやって、個々の悩みや不満や淡い期待を、淡々と、どこか無機的に並べていく。だから読者はセルゲイの、マアヤンの、ロネルの小さな痛みを嫌というほど反復することになる。初めは作品同士、どこにも繋がりを見出せないかもしれない。しかしやがて、放っておいても彼らは勝手に繋がり出す。というより彼らは最初から、同じ一つの場所の住人なのだ。定点観測者のように俯瞰していると、頭がぼうっとして、生きるという行為の正体にほんの一瞬手が届きそうになる。ただ生まれて、理不尽なものに囲まれて、それでもなぜ生きなければならないのかという問いの答えを、アヴィシャイの、ミロンの、ツィキの向こうに、あなたも一瞬感じるかもしれない。

 (もとや・ゆきこ 作家)

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