インタビュー

2014年12月号掲載

『逢魔』刊行記念インタビュー

エロティックな奇譚集

唯川恵

古典の名作に、濡れ尽くしのエロスを捧げ、到達したのは官能の極み……。
美しく艶めかしく、それでいて怖ろしい短編集を書き終えた著者が今、その心の裡を明かす。

対象書籍名:『逢魔』
対象著者:唯川恵
対象書籍ISBN:978-4-10-133438-7

――『逢魔』は、唯川さんにとって初めての時代小説、そして怪談への取り組みになりましたが、書き終えられて、今、どういうお気持ちですか。

唯川 この短編集を書き始めたのは、今から五年前なのですが、デビュー以来長らく女性が主人公の恋愛小説を書いてきて、その頃少し行き詰まりのようなものを感じることがあり、培ってきた現代小説の手法を生かす形で、違った切り口の小説を書けないかと、新しい何かを模索していました。同時に、もっとシンプルに、女の在り方を強く書きたいという欲求もとても強まっていて、しかし、現代を舞台にすると、設定が複雑になるばかりで、人の気持ちだけをストレートに表現するのはとても難しいんですよね。さぁ、どうしたものかといろいろ思案していた時に、編集者に「ならば、怪談はいかがですか?」と言われたんです。なるほどその手があったかと目から鱗が落ちました。時代小説という設定で怪談を通してならば、女の情念や恋愛の裏腹にある憎しみや嫉妬を徹底的に書き込めると思い、すぐに書き始めました。ただ、いざスタートしてみると、三大怪談以外の怪談で、心ひかれる作品がなかったので、化けもの系もいけるかなと「怪猫伝」に辿りつき、さらには民話までと、結果的には様々なジャンルを扱うことになりました。

 実は私、今年で作家生活三十年を迎えたのですが、節目の年に、新しいジャンルにチャレンジした短編を、単行本としてまとめることができ、嬉しいです。

――三十周年、本当におめでとうございます。では、『逢魔』はゼロからストーリーを作るのではなく、原典をなぞらえる、アレンジしていくという手法になっているのですね。

唯川 これが、本当に楽しかったんです。最初に書いたのは、「牡丹燈籠」で、元にした三遊亭圓朝の作品は、ものすごく長い作品なのですが、主人公である新三郎と露のエピソードはとても短く、全体の中で小さく扱われています。彼らを、自分なりにどう膨らませるかを考えるのは面白かったですね。

「四谷怪談」は、岩と伊右衛門ではなく、脇役である梅を主人公にしました。諸説ありますが、梅には梅なりの純粋さもあったはずなので、彼女に光をあてたかったんです。また、原典ではすごく嫌な人物として描かれている宅悦に、今回、ある役目を担ってもらったわけですが、そうさせるためには、やはり宅悦なりのストーリーが必要で、なにゆえ彼がそこまでしたかを徹底的に考え、それを盛り込んでいきました。この作品を書く前には四谷稲荷にお参りに行きましたが、岩を悪い人にはできませんでしたね。

――お話としては知っているはずなのに、唯川さんが見事に世界を広げているので、初めてのストーリーを読んでいるようでした。読後は、背筋が凍るほどに怖くなります。そして、実に、美しい。

唯川 現世にない怖さには、美しさや悲しさ、色っぽさなど色々なものが含まれていると私は思います。幽霊は、怖いだけではダメなんです。それでは人の心に残らない。しかし、原典にはそういう要素があまりなくて、正直言うと、私自身が読んでいて物足りなかった。なので、ただ怖いだけにならないように、その部分は強く意識しました。

――書いていて、一番楽しかった作品はどれですか?

唯川 「山姥」です。死んでも生きていても悲しい結末が多い中で、一編だけは、残酷だけれども次につながっていくような小説にしたかったんです。主人公の吾助は、辛い目に遭わせてしまいましたが、たとえ思い違いであろうと、希望がもてる結末になるようにしました。ちなみに山姥は伝説を元にしていますが、色々調べていったら、日本中に山姥がいることが分かって面白かったです(笑)。

 もっとも主人公に感情移入したのは、「源氏物語」の六条御息所です。年下の男との恋愛に苦しむ女の想いは、一〇〇〇年の時をも越えて、現代の私たちに通じるものがありますね。「源氏物語」という壮大な物語を題材にするなんて、おこがましいと思いつつ書かせてもらいましたが、他のどの女性たちより、やはり六条御息所が一番切ない。書いてよかったと思えた作品です。また、作中で六条御息所は白鷺という幼名を持っていたという設定にしましたが、これは私の想像です。ここまで書いてしまってもいいのかなと思うくらい、自由に書いてしまって、申し訳ない気持ちです。

――『逢魔』というタイトルは、最初から決まっていたんですか。

唯川 いえいえ、全然決まらなくて、ものすごく悩みました。ただ、短い言葉で、色々と想像が膨らむものにしたいというイメージはあって、それこそ四六時中考えていたのですが、なかなか浮かばなかったんです。

――いつ、閃いたのでしょうか?

唯川 「小説新潮」に最後に掲載した「ろくろ首」の最初の一行目に、「男が現れたのは逢魔が時である」と書いたときです。「逢魔」という言葉が自分の中から出てきた瞬間、これが答えかもしれないと予感しました。自分の中の魔、向こうから迫ってくる魔、登場人物たちはみな、魔に出会っている。魔という言葉こそが、すべてを象徴していたのです。他にも探してみましたが、やはり『逢魔』以上にしっくりくる言葉はありませんでした。怪談をきっかけに、まさに「魔に逢う」短編集になったと思います。

――装幀のイメージはいかがでしたか。

唯川 何と言っても、装画が素晴らしかったです。ピンク色も艶めかしいですし、思わず触れたくなると思います。そしてぜひ、この作品集は大人の男性にも読んでもらいたいです。『とける、とろける』(新潮文庫)という作品でエロティックな小説に挑戦したのですが、今回もその気配は充分に漂わせています。

――『とける、とろける』よりさらに、官能的であるような気がしました。

唯川 最近何となくなのですが、小説を読んでいて、エロティックさが少なくなっているように感じていたんです。なので、この短編集には、性行為そのものはもちろんのこと、そこにむわんと纏わりつくいやらしさも含め、エロティシズムをふんだんに書き込んでいきました。これもやはり、現代を舞台にするとなかなか表現しにくいですが、時代小説にすることで、思う存分描くことができたのだと思います。

 性器の名称も、昔は子壺、玉門など、男性器、女性器それぞれに様々な言葉があって、意味もあり、趣深く、言葉自体になまめかしさや奥ゆかしさがあるんですよね。言葉が持つイメージもそれぞれ違っていて、大人びていたり、雅やかだったり、下世話だったりします。それを作品ごとに使い分けました。現代で使われている言葉は、やはりもう慣れすぎてしまって、言葉自体に情緒がなくなっています。今回、単行本の帯に「ホト」という言葉を使っていますが、現代ものだったら、直接的な言葉は出せなかったと思います。

――言葉の単調化も含め、現代の方が、男と女の情念やエロティシズムも弱まっているのでしょうか。

唯川 本能としては、持っていると思います。しかし、薄まっているのではないでしょうか。たとえば、食べることや寝ることに対してでも、現代の人は昔の人ほど貪欲ではないと思います。なぜなら、今の人は他にも紛らわせる手段をたくさん知っているからで、そういう本能が存在していても、なかなか外に出てこない。出す必要がないんですね。けれども、ちょっとした拍子にそれまで埋もれていた部分がわぁっと出てくると、現代人は逆に歯止めがきかなくなる可能性もあると思います。ストーカーとか、殺さないと気がすまないという心理状態に陥ってしまったりとか……。本能の扱い方を、現代人はよく分かっていないのかもしれません。昔はもっと本能が身近にあって、自然と向き合い方を学んでいたような気がします。

――コントロールできていたということでしょうか?

唯川 おさえるだけではなく、出すことも含めてコントロールできていたのではないでしょうか。昔の人の方が性的にも自由だと言われていますが、本能を出せる場所があったんだと思います。現代だと、立場や環境をどうしても考えてしまうし、手にしているものも多い。そういう意味でも現代は窮屈になっているような気がします。

――これから、書いてみたいテーマはありますか。

唯川 来年は、初めて実在の女性をモデルにしたフィクションを書く予定です。そしてできたら、翻訳をしてみたいですね。昔、私自身が読んで感動した作品を、手がけてみたいです。時代小説は、時代考証をがっちりするというより、時代を越えたファンタジーのように書いていきたいです。

 来年、私は還暦を迎えます。干支で考えると一回りするわけで、つまり、またスタートに戻れるということだと思います。がんがん書きまくるというよりも、じっくり小説と向き合って、楽しみながら書いていけたらいいですね。

 (ゆいかわ・けい 作家)

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