書評

2014年10月号掲載

絶妙すぎる「語りの塩梅」

――重松清『一人っ子同盟』

吉田伸子

対象書籍名:『一人っ子同盟』
対象著者:重松清
対象書籍ISBN:978-4-10-134936-7

「あら、一人っ子なの、可哀そうね」「兄弟がいないと寂しいでしょ」
 昭和四十年代、小学生だった私が、何度となく言われた言葉だ。言ってる人に悪意はないことも、むしろ、私のことを思い遣ってくれての言葉だということも、今なら分かる。けれど、その当時、この言葉を聞くのは本当に苦手だった。嫌だった。あの頃は、ちゃんと言語化できなかったけれど、何と言うか、「世界からはじかれる」ような気がしたのだと思う。今どきはさすがに耳にしなくなったけれど、“一人っ子とおばあちゃん子は三文安い”なんて言葉が、普通にあったくらいなのだ。三文って、何だよ、三文って、どこから出て来たんだよ、なんて言えるのは大人になった今だからで、一人っ子で、おばあちゃん子でもあった私は、そうか、私はじゃあ、合わせて六文安いんだ、と平べったい気持で思ったことを、今でも覚えている。
 本書は重松さんの新刊だ。時代は、「鍵っ子」という言葉が普通に使われていた頃の昭和、東京の団地が舞台である。物語には三人の“一人っ子”が登場する。語り手である小六の“ぼく”=ノブ(大橋信夫)、ノブの同級生で同じ団地に住むハム子=藤田公子、そして、ノブが暮らす団地の、真下の部屋に引っ越して来た小四のオサム。彼らは、それぞれに事情を抱える“一人っ子”だ。ノブには二歳上の兄・和哉がいた。八年前、和哉が交通事故で亡くなってから、一人っ子になった。母子家庭だったハム子は、六年生になった時に母親が再婚し、戸籍上は義父の連れ子である陽介という弟ができたものの、頑なに、自分は一人っ子なのだと言い張っている。そして、赤ん坊の頃に両親を亡くし、親戚の家をたらい回しにされた挙げ句に、遠縁である老夫婦の家にやって来たオサム。
 物語は、この三人それぞれのドラマを丁寧に綴っていくのだが、冒頭、ノブとハム子の出会いが鮮烈だ。小一の秋に、ハム子がノブのクラスに転入して来た時、先生が黒板に書いた名前が縦書きだったために、公子が「ハム子」に見えてしまったノブは、思わず口にしてしまう。「ふじた、ハム子」と。ノブのその言葉に、教室内は爆笑の渦。が、当のハム子は泣き出すでも怒るでもない。ノブがほっと気を抜いたその瞬間、教壇からノブの席まで助走をつけて、ハム子はノブの机に飛び蹴りをくらわせる。ノブは椅子ごとひっくり返り、手首と肘を捻ってしまう。このシーン、赤毛をからかったギルバードの頭に、振り向きざま石盤を叩き付けたアンを彷彿とさせる、実に鮮やかな「ボーイ・ミーツ・ガール」である。ハム子は、その時以来、「女子最強王者」となる。
 ハム子の、強くてクールなキャラは、母子家庭に育ったことの裏返しでもあるのだが、そのディテイルは重松さんは敢えて描かない。再婚した義父と徹底的に距離を置く理由も、描かない。でも、だからこそ、鍵のかかる部屋が欲しい、とハム子が雨空に向かって怒鳴った時、そのハム子の声が、読み手の胸を刺す。同様に、どうして小四のオサムに、虚言癖と盗癖がついてしまったのか、その細かいディテイルも重松さんは描かない。けれど、すっかりと板についてしまっているオサムの卑屈でこずるい言動に、読み手は彼の辛かった日々に思いを巡らさざるを得ない。このあたりの、「語りの塩梅」は、絶妙すぎるほどに絶妙だ。
 物語の背景として、あの頃の団地事情の変化を持って来ているのも、重松さんの物語巧者なところだ。物語の中に、ノブの母親のこんな言葉が出てくる。「世の中って、『みんな』に含まれない子には冷たいの。子どもだけじゃなくて、おとなも」これは、団地の自治会がらみの話の場面で出てくる言葉なのだが、さりげないこの言葉こそが、本書の肝だ。当時、一人っ子の子どもは、「みんな」に含まれてはいなかった。母子家庭の子どもも、天涯孤独の子どもも。
 あれから時を経て、ノブもハム子も、そしてオサムも、人生の折り返し地点を過ぎているはずだ。本書は、彼らの「子どもの日々」を描いたものだが、読み終わると、三人の「それからの日々」が無性に読みたくなる。彼らの“今”を、いつか重松さんに書いて欲しいと思う。

 (よしだ・のぶこ 書評家)

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