書評

2014年8月号掲載

歴史という怪物との格闘

――山城むつみ『小林秀雄とその戦争の時 『ドストエフスキイの文学』の空白』

富岡幸一郎

対象書籍名:『小林秀雄とその戦争の時 『ドストエフスキイの文学』の空白』
対象著者:山城むつみ
対象書籍ISBN:978-4-10-335991-3

 小林秀雄についてはこれまでも多くの評論や研究が書かれてきた。生前はもとより没後三十余年を経ても、小林の批評文は読まれ続け、この天才的な批評家についての論は後を絶たない。本書も表題からすれば小林秀雄論であり、事実小林の代表作であるドストエフスキー論を俎上にのせているが、これまでの凡百の小林論がほとんど触れてこなかった小林の「戦争」体験に徹底的な考察を加えている。終戦の時に四十三歳であった小林は召集され兵士として戦場に赴くことはなかったが、満州事変以降に中国大陸に何度か渡り、少なからぬ従軍記事を書いている。ドストエフスキー論考はこの「戦争の時」と雁行するように書かれ、『罪と罰』『白痴』論そして「ドストエフスキイの生活」という評伝を発表し、日中戦争の最中に『悪霊』論にとりかかるが、未完となり、終戦を迎えるとそれまで書きためていた「千枚の原稿」を放擲し、全く新たに『罪と罰』論を書き直す。つまり満州事変以降の戦争と日本の敗戦という現実は、小林のドストエフスキー論考の全体にある決定的な影響を与えた、いやそれ以上に、この批評家の実存の核心部分に何か深い亀裂をもたらしたのである。
 著者は、『悪霊』論の中絶の秘密を、小林の「杭州」「蘇州」「満洲の印象」等のテキストを詳細に読み解くところから明らかにし、五族協和の「王道楽土」の建設というスローガンのもとに遂行された日本人の戦争の最も深い「歴史の硬い岩盤」にぶつかった小林が、ドストエフスキー自身が一八七〇年代の帝政ロシアの時代で対峙した、スラブ民族の内部の「戦争の時」を、文学者として共時的に生きはじめるところをスリリングに描き出す。それは研究や論証によって跡付けていくのではなく、ドストエフスキーの文学(山城氏は二〇一〇年に大部の『ドストエフスキー』を刊行している)と、小林秀雄という批評家の魂のぶつかり合いのなかに、直に突入し、彼等が歴史という怪物といかに格闘したかを批評文(エセー)として「描き出す」ことである。
 そこに見えてくるものは、しかしもはや小林秀雄という一人の批評家でもなければ、ドストエフスキーという世紀の作家でもない。小林が満州の開拓村の隅々にまで行って目にした、満蒙開拓青少年義勇兵たちの悲惨な姿から、また人間が観念に憑かれて何処までも行こうとする、「歴史の必然性」とでも呼ぶ他はない「恐ろしさ」を、その「戦争」体験の全体から直覚したところから、現われ出てくるものである。その無気味なまでに巨大な宿命的なものを、敗戦後に書き改めた『罪と罰』論の最後で、シベリアへ流刑になったラスコーリニコフについて言及するなかで、小林はこう表現してみせる。
《彼には訝る事しか出来ない。何もかも正しかつたと彼は考へる。何もかも正しかつた事が、どうしてこんなに悩ましく苦しい事なのだらうか》
 本書が渾身の力であぶり出してくるのは、この「彼」の異様な姿である。もちろんこの「彼」はラスコーリニコフという作中人物だけではない。酷寒のなかで楽土の夢のために食物もなく働く少年達であり、彼等を派遣し指導する大人達であり、大陸の戦争へと突進しやがて惨憺たる敗戦を迎えた国の民であり、その「戦争」を文学者として生き抜いた小林秀雄自身であり、崩壊しつつあるロシアの世紀末のなかで「無条件に美しいもの」を、キリストを描こうとしたドストエフスキーその人でもある。本書の最後には、武田泰淳「ひかりごけ」、森有正『遙かなノートル・ダム』を論じた二編が収められているが、上海で日本の敗戦を「滅亡」として経験した作家と、戦後に祖国を捨ててパリに赴きかの地に骨をうずめる覚悟をした文学者の、長い「戦争の時」がシャープな筆致によって描かれている。永い「平和」の幻覚が破られ、今まさに「戦争」が露出してきた時に、本書は現代のわれわれに鋭利で深淵な実存的問いかけを投げかけてやまない。

 (とみおか・こういちろう 文芸評論家)

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