書評

2014年7月号掲載

『トワイライト・シャッフル』刊行記念特集

この艶。大山脈を母として

――乙川優三郎『トワイライト・シャッフル』

平松洋子

対象書籍名:『トワイライト・シャッフル』
対象著者:乙川優三郎
対象書籍ISBN:978-4-10-439306-0

 昨年、長編小説『脊梁山脈』に耽溺した一読者として、意外な驚きとともに短篇十三作を編んだ本書を手に取った。
『脊梁山脈』は、敗戦後の日本を彷徨する男を主人公に据え、日本人の精神性を真正面から問いながら独自の歴史観を提示した重量級の作品である。私などいまだに余韻に浸りこんだままで、またしても再読の愉しみに耽ろうと思っていた矢先だったから、十三篇のうち十の題名が欧文カタカナ表記の『トワイライト・シャッフル』に少々戸惑ったのだった。
 ところが、ほどなく「あっ」と息を呑み、納得させられた。十三篇の舞台は、いずれも房総半島の海辺の街。つまり『脊梁山脈』の大団円、主人公が根を下ろした土地なのである。そうだったのか。著者の意図は歴然としている。私はがぜん膝を乗りだした。
 さまざまな男と女が登場する。老いた海女。夫に先立たれ、異国の海辺のテラスで岬を眺めながら暮らす女。夏の三ヶ月だけ半島の小さなホテルでボサノバを弾くジャズ・ピアニストの男。長年の関係を解消しようと足掻く男女。移住してきた画家に雇われ、裸婦のモデルを務める郵便局員の女。交通遺児として育ち、額に汗して造園に精出してきた男。または、馴染んだ男へいましも別離を告げようとするリオ育ちの女……ある者はこの土地に生を受けて暮らし、ある者はほんの数日かりそめに滞在し、ある者は闖入者として訪れ、そして去ってゆく。まるで似たところのない男や女でありながら、しかし彼らはどこかですれ違い、ふとしたとき会話を交わす間柄であったかもしれない。そう思い至れば、潮風を孕む情景を写しだす十三篇は、ときにほの暗く、官能的に響き合うのだった。
 場面に陰影を醸す会話の妙は、映画的なダイアローグを連想させもする。たとえば海の見えるホテルのバーで(「オ・グランジ・アモール」)。
「(前略)自分なりに一生の夢を追いかけているつもりだったが、あるときから窮屈な現実ばかり見てきたような気がする、一枚の絵ができたら次の絵に向かえばよいものを、同じ絵にしつこく塗り重ねて息苦しいものにしてしまったらしい、ジョビンに敵うわけがない」
「それはわたしも同じです、ボサノバが胸に沁みるのは身に覚えのあることや、口に出せないことや、ひとりでは重たいことを軽く囁いてくれるからでしょう」
 過去に拘泥するピアニストの自嘲を、柔らかな言葉で包みこむ女の心情がじわりと沁みる。
 乙川優三郎が描きだす人物像の艶(つや)に、たまらなく惹かれる。その筆が描きだすのは、もう若くはない、現実に疲弊した市井のひとびと。古風とみえて、人並みの計算や見栄や損得勘定、世間体や出世欲ももちろんある。しかし、悲哀や自己憐憫を押しのけて生きる力を鼓舞しようとするとき、人物それぞれの存在感が増幅し、にわかに艶めく。暗闇を抜けてぽっと光明が射し込む心地に、読む者はどれほど励まされることだろう。
 夫の失踪以来四年、読書と酒で自分を支えてきた女の手元に、知らぬうち溜まったメモがある(「ビア・ジン・コーク」)。そのなかの一枚は、チェーホフのこんな言葉だ。
「煎じつめればこの世のことは何もかも美しいのであり、美しくないのは生きることの気高い目的や自分の人間的価値を忘れたときの私たちの考えや行為だけである」
 おもえば、乙川優三郎の視点に通底しているのは、チェーホフの書く「気高い目的」「人間的価値」を旨としておこなう洞察にほかならない。一貫した試みと挑戦に思いを馳せれば、そもそも小説の手法や時代設定に何ら戸惑う必要などなかった。
 脊梁山脈が土地の分水界となる大山脈であるとすれば、本書に収録された十三篇は、その大山脈を母として生まれた幾筋もの豊かな水脈。戦後から現在にいたるまで、房総半島を縫うようにして滔々と流れ続けてきた音は、地層の奥まったところにくぐもってひそやかだが、しかと耳を澄ませば、その響きの激しさにたじろぐはずだ。

 (ひらまつ・ようこ エッセイスト)

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