インタビュー

2014年4月号掲載

『花子とアンへの道 本が好き、仕事が好き、ひとが好き』刊行記念 インタビュー

祖母の人生とともに本があった

村岡恵理

対象書籍名:『花子とアンへの道 本が好き、仕事が好き、ひとが好き』
対象著者:村岡恵理編
対象書籍ISBN:978-4-10-335511-3

――ご著書『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(新潮文庫)は、おばあさまで翻訳家の村岡花子さんの人生を見事に描ききった名評伝です。『花子とアンへの道』はまさにそのビジュアル版で、花子さんの遺した書籍や原稿、身のまわりの愛用品、ポートレートなど貴重な資料を軸に、花子さんの歩んだ道を辿っています。今日は、恵理さんにとって「村岡花子」とはどんな存在なのか、その生き方をどうとらえていらっしゃるのか、じっくりお聞きしたいと思います。恵理さんは実際の花子さんを憶えていらっしゃいますか。

 祖母が亡くなったとき私はまだ11カ月でしたので記憶はありません。ただ、祖母が亡くなる2日前に書いた最後の原稿、「大阪の休日」というエッセイに初めて私が登場するんです。祖母と私が家で留守番をしているうちに、目を覚ました私が泣き出して、祖母が一生懸命あやして寝かしつけるのですが、私がまたわあわあ泣き出して、祖母は途方に暮れて。そのとき祖母は、私たちの母を連れてカナダへの旅行を計画していたのですが、「こんな可愛い、いたいけな子どもをどうして母親から離すことができようか、わたしの外国旅行などは鬼にくわれてしまえ」と、自分のプランをぷっつり切ってしまう、そういう随筆です。

――この随筆が、花子さんの最初の記憶、になるわけですね。

 そうですね。これは、祖母にとって人生で初めてと言っていい休日を、当時の私たちの大阪の家で過ごし、最後に私との二人きりの濃密な時間をもってくれていた証でもあります。そして「大丈夫よ、恵理」と語りかけてくれた。このエッセイは小学校の頃から私の宝物です。子供のときは「おばあちゃんが私のこと、書いてくれている」と嬉しくて、何度も繰り返し読んでいました。8つ上の姉(美枝さん)のことはたびたびエッセイに出てくるのに、私はこの一編だけ。嫉妬深い子供だったんです、私(笑)。読んでいるとなんだか私を見守る祖母の“まなざし”のようなものをすごく感じました。そして大きくなるにつれて、赤ちゃんの私を祖母が「大丈夫よ」というまなざしで抱いてくれているという光景をもうひとりの私が見ている、というふうに映像化していました。

――最後のエッセイに書き残してくださったというのは、なにか運命的なものを感じますね。

 このエッセイがなかったら、『アンのゆりかご』は書かなかったかもしれません。私には記憶はなくても、祖母の最後の記憶の中に確かに私が入っている、ということは大きいです。でもね、祖母はハンドバッグに家族写真――母や姉、幼くして亡くなった長男の道雄君の写真を入れて持ち歩いていたのに、私の写真だけ、ない。またそこでムラっと来まして(笑)。

――まだちっちゃすぎたのは不利でしたね(笑)。そしてのちに東洋英和という学び舎で、恵理さんと花子さん、二人の青春が重なってきます。

 おばあちゃんもここで学んだんだ、と、ものすごく祖母を近くに感じる場でした。もちろん祖母のいた頃とはまったく時代が違うわけですが、祖母のことをよくご存じの先生や母(みどりさん)がお習いした先生がまだいらっしゃって、お話をうかがうこともできました。しかしまあ、自由な学校ですし、たまに私がちょっと悪さをすると、古い先生がツカツカッと走っていらして「あなたがそんなことをなさると、おばあさまがお嘆きになりますよ」などと言われるのですが、こちらは「わっはっは」と笑ってしまう感じ。先生方は「おばあさまはあんなに勉強家なのに」と嘆いてらっしゃったとは思いますが、比べられたり、プレッシャーを感じたりということは一切なかった。のびのびと過ごしました(笑)。

――やはり東洋英和は特別な場所ですか。

 在学中は学校の歴史など興味なかったので、たとえば毎日の礼拝の中で、昔ブラックモア先生という方がいらして……などというお話が出ても、みんな聞き流しているわけです。しかし卒業してずいぶん経って、祖母のことを調べている段階で、「あ、つながる」って気づくことが多くありました。ああ、あの先生がよく話していたブラックモア先生ってこんな先生だったのか、とか。東洋英和に通っている間に、祖母の存在が、少しずつ雨水が溜まっていくように、私の中に溜まっていったのでしょうね。

――調べていく上で、驚いたことなどもありましたか。

 まず母や祖母の生きた時代を、私は何にも知らない、ということに自分でびっくりしました。近代史なんて歴史の授業でも適当にスルーしてしまいますし、よく知らないままだったのですが、ほんとうは、今の私たちの生活に一番関わっているのがこの時代。女性や子どもをとりまく環境はどうだったのか、私たちが当然のように行使している権利はどうやって獲得してきたのか、そういうことをもっといっぱい聞いておくべきだったと後悔もしました。祖母が戦争中にカナダ人の友人から贈られた『赤毛のアン』の原著を翻訳していて、空襲の中でもそれを風呂敷に包んで抱えて防空壕に駆け込んだ、ということはリフレインのように母たちから聞かされてきて、私たちもそれをその通りに覚えたわけですけれども、それはただ友情のためにとか、この物語が好きだったからとかでは到底できることではありません。明日は死んでしまうかもしれない、そういう状況の中でも翻訳を続けられるという覚悟というか強い気持ちは、いったいどこからくるのだろう、それには祖母の生い立ちや生きてきた時代をもっともっと知らなくては、と思ったのです。

――その強さのひみつは、なんだったのでしょう?

 家族や兄弟の犠牲の上に大きな期待をかけられて育った生い立ちとか、友人たちとの出会いとか、祖母の中に重ねられてきたもの、すべてがそうさせたのだと思いますが、それとポジティブな性格でしょうか。祖母の人生で最も大きな事件は、もしかしたら戦争以上に道雄君の死だったのかもしれませんが、そういう苦しみをひとつずつ乗り越えてきて、自分のプラスにしてどんどん強さに変えていったのでしょう。そして東洋英和で養った、人への還元奉仕というか、使命感。10歳から家族と離れ、毎日、宣教師の先生たちの、誰かのために、何かのために、という献身的に生きる姿を見てきたのですから、その精神性は自然に祖母の中に吹き込まれていたはずです。それが祖母を前へ前へと進ませたと思います。

――そもそも花子さんはどうして翻訳家になろうと思ったのでしょう。

 選んで翻訳家になったわけではないと思うんです、多分。なにかしら文筆の仕事を、と思って短歌を作ったり小説を書いたりしましたが、片山廣子さんや吉屋信子さんにはとてもかなわないと気づき、祖母なりに挫折したでしょう。しかし文学から離れることは考えられなかったし、英語力が武器にもなった。だから自分に合う翻訳の仕事にはまっていったのだと思います。祖母自身は青春時代に読んだ英米文学から、ポジティブな考え方や強さ、心のスプリングみたいなものを得て成長しました。でもふと見回したら、当時の日本の出版界にはそういう本がなかった。だから若い人たちに心の希望となる文学を届けたい、それが自分に与えられた使命である、と燃えたのではないでしょうか。その頃祖母は、もう人生というのはそんなに生易しいものではない、何が起こるかわからないということを知っていました。きっと今若い彼ら彼女たちにもいろんなことが起こるはず、けれどもそれを乗り越えるためのスプリング――どんなときにも悲観的になるのではなくて希望を見出せるような精神――を十代、二十代の若いうちに培っておかなければいけない。それが祖母がほんとうに伝えたかったことなのだと思います。本の力を信じていた。私もやっと最近になってわかったような気がします。

――花子さんが生涯に翻訳した作品は膨大で、のべ400冊をゆうに超えています。その数ある中でも、とくにモンゴメリ作品に入れ込まれたのはなぜでしょう。

 やっぱり、カナダのモンゴメリ作品の中に、東洋英和時代に自分が教育を受けた先生たちと同じようなスピリットを感じ、そこに描かれている生活、文化に一体感を得たからではないでしょうか。祖母の人生においても、ただ夢に向かってまっすぐに突き進める環境ではなかったけれど、さまざまな人に出会い、挫折をしながら、まわりの人たちと共存していく中で実りや新しい発見があって、結果的に人間を豊かにしていく――そういう人生観が、モンゴメリ自身にも、作品の主人公のアンやエミリーにも貫かれていましたし、祖母自身も共感できたということでしょうね。

――恵理さんご自身が、花子さんの翻訳作品で最も好きなものは何ですか。

 アンシリーズ、エミリーシリーズは別格として、『王子と乞食』がとくに好きです。新聞記者だったマーク・トウェインの風刺精神の効いた、大人が読むべき素晴らしい作品で、原書は片山廣子さんが祖母に贈ってくださいました。ほんとに祖母って逆境のときにいい仕事をする人だな、と思います。道雄君を亡くして一番苦しい時に、力を振り絞ってがんばって翻訳して刊行した祖母の記念碑的な作品で、私にとってもすごく大事な本です。

――NHKで「花子とアン」が始まります。『アンのゆりかご』を原案に花子さんの人生がドラマとなりますが、恵理さんはどうご覧になりますか。

 祖母はもう不死身なくらい働きどおしに働いたひと。停まってしまうと死んじゃう回遊魚みたいな感じ(笑)。死の直前まで働いて75歳で亡くなりましたが、ほんとはまだまだもっと動き回りたかったと思います。だからドラマになって張り切っていると思うんですよ。主演の吉高さんのことも応援しているのではないでしょうか。祖母があの時代に多くの人を元気にしたように、いままた誰かを元気にするために、祖母の生き方が取り上げられたのかな。だから、私も『アンのゆりかご』を書いておいてよかったな、と思います。

――最後に、『花子とアンへの道』のおすすめポイントを。

 祖母は本にけっこう書き込みをするんです。なぜか翻訳の原書には一切しないのですが。本が出来たときには「愛するみどりへ」なんて書いて贈る。それはもう、贈られた本人や家族には特別な一冊です。その本に祖母の思いが封じ込められているわけですから。そして書き込みから本心の動きが見えるのが、とても面白い。人って何かしらに自分の足跡を付けていくものなのかもしれないけれど、祖母の場合は本なのですね。祖母の人生とともに本があった――そういう書き込み、足跡を載せていますので、そんなところにも「村岡花子」を感じていただければ嬉しいです。

 (むらおか・えり 作家)

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