書評

2014年4月号掲載

書かずにはいられない

――北村薫『書かずにはいられない 北村薫のエッセイ』

北村薫

対象書籍名:『書かずにはいられない 北村薫のエッセイ』
対象著者:北村薫
対象書籍ISBN:978-4-10-406609-4

彼は死んでゐるのではないかといふ噂は打ち消されたり死去のニュースに


 中地俊夫の歌集『妻は温泉』中の一首である。この人の作には、微妙なユーモアと真実がある。《そうそう、そういうことあるなあ》と思ってしまう。
 さて先日、聞いたところによるとシャープのワープロのメンテナンスが打ち切られたそうだ。わたしは、ずっと「書院」を使っている。パソコンでは書けない――と、公言して来た。この文章も、その最終タイプで綴っている。そんなわけで、
「北村さん、ピンチですね」
 と、いわれた。冗談ごとではない。これが使えなくなると困る。だが、実は打ち切りのニュースを聞いた時、反射的に浮かんだのは中地の、冒頭の歌だった。
 つまり、
 ――何だ、まだメンテナンスやっていたのかっ!
 と、思ったのである。
 経年劣化で、プラスチックが弱ったのだろう。表示画面を支える根元の部分が割れてしまった一台がある。開閉する部分だ。開いていないと文章が作れないし、閉じないと印刷出来ない。ワープロの機械そのものは《使える》のに、事実上使えないという口惜しい状態になってしまった。
 ほかにも、こちらはあそこが駄目、こちらは別のところが壊れた――という組み合わせもある。
 そうなった時点であきらめていた。だが数カ月前なら、まだ直してもらえたのかも知れない。わたしはひたすら、
 ――彼は死んでゐる。
 と、思い込んでしまった。《電器店に持ち込んでも仕方がない》と考えてしまったのだ。直せば直ったのかも知れない。手を尽くさなかったことが悔やまれる。生き返ったのかも知れない。
 ――役に立ってくれたワープロ達にすまない……。
 と、しみじみ思う。
 取り返しのつかないことは、さまざまにある。ありがたいことに、わたしのうちにはまだ、ワープロが残っている。せめては、いくつかの、消える筈の思いを言葉にして残そう。
 読み、かつ書くのが、わたしの日常だ。
 今日、開いたのは、ぺりかん社から出ている『山東京伝全集』の第一巻。小学生の頃に読んだ『江戸生艶気樺焼(ゑどむまれうはきのかばやき)』なども入っていて懐かしい。中に『手前勝手 御存商売物(ごぞんじのしやうばいもの)』というのがある。天明二年というから、今から二百三十年も前の作だ。流行遅れになりそうな本達が、売れている本達の足を引っ張ろう――と、あれこれ画策する。そういうと不思議だが、要するに《本》という存在が擬人化され、戦うわけだ。ワープロがパソコンに一矢報いようとする――ようなものだ。物語だけでなく、数学書の『塵劫記(じんこうき)』や、案内書の『吉原細見』なども出て来る。
 地球のはるか遠くイギリスの地で、『ガリバー旅行記』でおなじみのジョナサン・スウィフトが、図書館の本達による『書物戦争』を書いたのは、それよりさらに前のことだ。奇才は東西に分かれ時を隔てても、似たアイデアを得る。
 京伝の作中では、争いの仲裁に『唐詩選』と『源氏物語』が乗り出す。双方をさとした後、日本の古典はいう。
「必ず、叱る源氏だと思うまいぞ」
 いやあ、やっぱり京伝の本だ――と嬉しくなってしまう。
 山東京伝とわたしが、その瞬間、確かに手を繋ぐ。しかし、書かなければこんな思いも一瞬に過ぎ去ってしまう。だから、《書く》というのは有効な手段だ。
 それをしなければ、わたし《は死んでゐるのではないか》と思うに違いない。

 (きたむら・かおる 作家)

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