書評

2014年3月号掲載

三陸鉄道を全線復旧させた「社長の一言」

――冨手淳『線路はつながった 三陸鉄道 復興の始発駅』

高山文彦

対象書籍名:『線路はつながった 三陸鉄道 復興の始発駅』
対象著者:冨手淳
対象書籍ISBN:978-4-10-335271-6

 うれしい日がやって来る。三陸沿岸の人たちのよろこびは格別だろう。
 東日本大震災から三年、三陸鉄道の全線復旧開通式が、四月五日(南リアス線)と六日(北リアス線)の両日、それぞれ釜石市と宮古市でひらかれる。本書の刊行が間に合ったことが、もうひとつそれに加えてよろこばしい。
 著者は、三陸鉄道旅客サービス部長の冨手淳という人。あの3・11の壊滅的被災からこんにちの全線復旧にいたるまでの、当事者ならではの貴重な記録となった。魅力はほかにも多い。昭和五八年の開業準備段階からの変遷が詳述され、ばたばたと消えていった地方鉄道の悲しみの歴史のなかで孤塁を守ってきた意地と知恵とを知ることができる。
 冨手氏は大学卒業と同時に三陸鉄道に入社した。ちょうど第三セクター方式による開業準備に追われていたときだ。「三鉄」の歴史に社会人としての歩みがそのまま重なる同氏を訪ねたのは、震災から一カ月後の四月初旬であった。すでに被災から五日後には北リアス線の久慈・陸中野田間を、九日後には宮古・田老間を三鉄は走らせており、私が訪れたときは小本まで延伸していた。南リアス線側は、すぐには部分運行などかなわぬ惨状だった。
 南はだめだろうと私は絶望視していた。北でも、島越駅の一三メートルの高さに架かる橋梁の途方もない破壊のありさまを見て、どんなに頑張っても全線復旧は無理なのではないかと思っていた。自分の故郷の高千穂鉄道をはじめとする幾多の廃線の歴史から見て、これが避けられない現実ではないかと肩を落としていたのだ。
 被災当時の詳しい話を冨手氏から聞き、望月正彦社長(同氏は震災の前年六月に社長に就任したばかりだった)から、「三年間で全線復旧させる」と聞いて、びっくりしたのだった。それでいま、大きな感動に包まれている。ほんとうに三年で全線復旧を実現させたのだなあ、と。
 望月社長は岩手県庁職員として、入社したての冨手氏とともに三鉄開業の準備に奔走した人である。震災直後、ふたりで沿線の状況を見てまわるようすが本書には描かれているが、変わりはてた田老駅のホームで「とにかく列車を走らせよう。一刻も早く走らせよう」と冨手氏に言い、宮古の本社(といっても駅構内に残っていた車両を災害対策本部としていたのだが)にもどると動揺を隠せない職員たちに「落ち込んでいる暇はないぞ」「できる所から、一刻も早く列車を走らせる」と檄をとばす望月社長の姿が紹介される。
 復興の象徴として、メディアはこぞって応援した。朝の連続テレビドラマの舞台にもなって、ブームを巻き起こしもした。被災地ツアーの実施やレールの販売など、自助努力も怠らなかった。しかしそうした雰囲気をつくりだしたのは、社長のこの一言があったからではないかと思う。
 どの廃線となった地方鉄道にも、このようなことを言いだす人はいなかった。むしろ「負の遺産を子孫に残すな」などと、本書にもあるような世迷言を新聞に投稿し世論を煽る者までいる。高千穂鉄道が台風に被災したときも、同様の投書が載った。わかったふうな言いかたをこの人たちはしているが、「公共の福祉」という考えがまるで視界から消えている。
 三鉄も開業一一年目からは赤字に転落した。高千穂鉄道も年間七〇〇〇万円の赤字を出していた。しかしいったい「公共の福祉」に損得勘定を差し挟むべきなのか。通院・通学で「地元の足」となってきた鉄道は、立派な福祉の道具であった。年間七〇〇〇万円で地域社会に役立つのなら、損得勘定で言ったって安あがりではないか。
 瓦礫の荒野となりはてた島越駅跡に、茫然とふたりは立ち尽くしていた。片付けをしている地元の人が話しかけてくる。三鉄はいつ動くのか、子供が高校に通わなければならないのだ、と。ただならぬ光景のなかで、こうした問いを発する人間のおおらかさにあこがれる。「負の遺産」より、こちらのほうが望月社長には切実に受けとめられたのだ。
 震災から一カ月後、沿線の市町村長を訪問した同社長は、「三年以内の全線復旧」を説明したうえで、「被災した区間でも、ルート変更をしない」と伝えた。この英断の裏付けは、自然にたいする人間のありかたを問うて示唆的である。

 (たかやま ふみひこ 作家)

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