書評

2013年10月号掲載

夜明けの野火そのものを あなたに贈りたい気持ちには理由がある

――新川和江『千度呼べば』

和合亮一

対象書籍名:『千度呼べば』
対象著者:新川和江
対象書籍ISBN:978-4-10-334631-9

 好きな人を想う。古来、万葉集の頃より日本人はずっとそれを詠んできたのに、長い道のりの途中で、どこか詩人が自ら手放してきてしまった感じがある。
 それでも高村光太郎の「智恵子抄」や島崎藤村の「若菜集」など、確かな足跡は残されてきているのだが、やがて敗戦を経験して後に、戦争の意味を問い続ける戦後詩が詩の世界の主流となり、どこか恋愛詩というものはその陰に隠れ、少数派になってしまった。それが残念だと新川さんがおっしゃっていたことがある。しかしこの一冊に脈々と受け継がれている確かさを感じた。
 新川さんの長年の詩の仕事の表情には、美しい女性のきらめきがあり、優しく気丈な母親の歌があり、時には日本社会を憂う思想家の宣言があり、天と地を見つめるナチュラリストの呟きがあり……。それらを通じていつも溌剌としたものを私たちに与えてくれるのは、一つの方法にこだわらずに様々な道から、詩の高い丘を目指そうとしてこられたからに他ならない。いろんな可能性の引き出しを、その長い詩業の中で詩人として開きつづけてきた印象がある。そしていつもその底に大切にしまわれているのは、愛の概念。
 詩集を開くとまず「名前」というキーワードがよく登場することに気づく。「木や風は/どうしてわかってくれないのでしょう/みち潮の海みたいに/こころは その名でいっぱいなことを」(「その名でいっぱい」)。「のこっている/三つのつぼみ/早く お咲き/あのひとの名を/おしえて/あげる」(「おしえてあげる」)など、これらの詩句には自然との心の対話が見受けられる。
「「好きなの」/ひとりでに洩れてしまったつぶやきを/聞かれてしまった/花瓶のポピーに」(「聞かれてしまった」)。恋をする秘めやかさがそこにはいつも描かれている。天然の木や風や花に向けられているのは内なる熱い想いであり、ふと漏らされる名や好きという呟きは、若々しい内心を解き放とうとし、心の底に新鮮な自由を与えて止まない。愛することは生きることだというみずみずしい謳歌が、どこからともなく聞こえてくるかのようだ。
 読みふけっていて、心に炎が灯されてくる。恋い焦がれるとは情熱の火を高めることだ。しかしそれは、やがて報われて成就する時のためばかりではない。悲しい恋にも同じくそれはある。いくつか描かれている作品の中で私は特にこの詩に惹かれた。「火よ/あのひとからの手紙を全部 預けます/わたしには 蔵うところが無いのです」(「あのひとからの手紙を」)。
 たくさんの便箋が眼前で十年程の歳月と共に燃えていく。あらゆる感情がそこでくべられていく。「目が煮えてしまいそう」と語る。涙とこれまでの記憶とが流れ落ちていく。もうすぐ消えてしまうありのままの真実。最後はこのようにまとめられている。「あのひととの恋の/唯一の証人である 火よ」。新川さんには「火へのオード」という名詩群がある。ずっと「火」が心にもたらす意味を大切にしながら詩業を重ねてきた方であった。
 だから新川さんの詩を読みふけることは、様々な真実の火をたずねることに似ている。
 詩を書き始めた少女時代を振り返って新川さんはあとがきで記している。「当時のわたくしにとって詩といえば、それは恋うたにほかなりませんでした」と。しかし詩を書くことを仕事として選んでからは、ずっとそれを詩の中に潜ませてきたことも語っている。愛しい人の名を呼ぶように言葉は紡がれ、恋愛の風景がその約束のように佇んでいることを味わいながら、新川さんがご出産された時にまつわるエッセイのいくつかの言を思い浮かべた。「女性は本来、自然なのだ、自然そのものなのだ」。「私の中に、かぎりなく豊かな自然がひろがりはじめた」。男性へ、そして子へ、愛しい人へ。誰かを想う心はいつも風となり、自然の美しい姿へと託され、野を川を海を空を、あらゆる世界を吹き渡ってきたのだ。大いなる命の絆の道が、新川さんの詩の筆の先にはいつもある。
 実はある夜明けの焚き火を私は、あの日からずっと書斎に飾っている。
 震災前。二〇一一年の元旦に撮ったものだ。辛くなる時にそれを眺めて想う。まだ何も起きていなかった福島の時がここに静かに、燃えている。新川さんの詩集を閉じて目をつむる。火だ。生きることは、火を焚くことだ。どんな時も誰かを愛することだ……。この野火の一葉を、新川さんにお贈りしたい。

 (わごう・りょういち 詩人)

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