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『無垢の領域』刊行記念特集 インタビュー

人は、愚かでいいんだ

桜木紫乃

『ラブレス』を書き終えたあと、担当編集者から「次は、嫉妬で書きませんか」と依頼されました。それも「連載でやりませんか」と。「嫉妬」自体、なかなか理解できない感情でもあったので、それをテーマに小説を書くことによって、納得だったり腑に落ちる感覚を得られたり、なにか勉強になるかもしれないと思い、引き受けました。
 初めての長編連載でした。一年間「嫉妬」と向き合い続けることは、想像していたよりもはるかに苦しかったです。これまででいちばん「人を掘る」作業を自分に強いた小説でもあって、こういう来歴の人間は、こんなときにどう振る舞いどんな選択をするのだろうと、掘って掘って掘り続け、このままでは体と心が保たない、もういい加減、岩盤につきあたって欲しいと切望していたところで物語を閉じることができました。ほっとしています。
 書き始める前に「嫉妬」とは果たしてなんだろうかと、徹底的に考えました。男女の間で生じるようなもの、才能という言葉はあんまり信じていないのですが、たとえば自分の持っていない力に対して感じるもの、収入の違い、姑が嫁に抱く類のもの……。連載中もずっとその問いが頭の中にありました。通奏低音のように、この小説の土台のところで「嫉妬」が鳴り続けていたのです。後から読み返してみると、自分でも意識していなかったいろいろな種類の「嫉妬」を、どんな小さな脇役でも登場人物たちが持っていたことに気づき、あれもそうだったのかこれもそうだったのかと、不思議な心持ちになりました。
 最初の打ち合わせで、視点人物を、秋津(あきつ)先生(書道家)、信輝(のぶき)(図書館長)、伶子(れいこ)(秋津の妻で養護教諭)の三人にするということ、舞台を釧路にすることが決まりました。もうひとり 、信輝の妹である純香が重要な役割を担うことも確定し、中盤と終盤のいくつかのシーンも見えてきました。
 視点人物の三人は、ある程度の悩みと希望とあきらめを抱えながらそれぞれが生活者として暮らしている。そこに、欲も邪気も意図もまったく持たず、自分の価値観の範囲内でしか生きることができない純香がやってきます。三人はかのじょと触れあうことで、見なくても、気づかなくてもよいものに直面せざるを得なくなる。いいかえれば、心の中の蓋が、ぽんっと開いてしまうわけです。それまでは知らないふりをしていた、本当はこういう風に生きたい暮らしたいと考えていた欲望が溢れ出てくる。
 突然投げ込まれた石によって、どんな波紋が広がるのか。構想時から決めていたある出来事を契機に起こるかれらの変化。自分たちが本当はどういう生き方を願っているのか。純香と触れあうことで、なにを掴んでなにを捨てたのか。そこをどのように描くべきか、ずっと悩んでいました。
 純香はある才能を与えられています。書いているあるいは読んでいる側から見れば、その才能は哀しいものだと解釈したくなる。でも、純香は善悪の彼岸に生きているので、いいとも悪いとも思わないし、考えすらしない。それでも問い続けました。それであなたは幸せなのかと。純香だけに限らず、登場人物全員に、それであなたは幸せなのか、それでいいのかと、疑問を投げかけながら書きました。
 ポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』が作中で大きな意味を持っているのですが、構想の段階ではこうなることはまったく想定していませんでした。知人と話をしているときに、冒頭に出てくる観光客と旅行者の話題になり「それだ!」と閃いたのです。家に帰って本棚から『シェルタリング・スカイ』を取り出し、改めて読み返しました。映画版も観返しました。
 帰るべき場所に戻る観光客(ツーリスト)と、どこの土地にも属さずある場所からある場所へ流れるように移動し続ける  行者(トラヴェラー)。『シェルタリング・スカイ』の冒頭の一節と邂逅したことで、この小説の登場人物たちに、あなたたちはどちら側の人間なんだと書きながらずっと、訊ね続けることになりました。自分では旅行者(トラヴェラー) だと思っているけれども、本当は観光客(ツーリスト)であったりその逆であったり、最初から 旅行者(トラヴェラー) としてしか生きられなかったり。振り返ってみれば、登場人物と対峙しながら、かれらにいろいろなことを問いかけ続けたお話だったんですね。
 舞台となる釧路という街も、旅行者(トラヴェラー) だったんだということにも   、途中で気がつきました。そこに住む人たち自体が流れていくし、お店や施設も賑わいも変わっていく。固体のように見えるけれども長い目で考えると、目に見えない速度で少しずつ変化して、いつのまにか中身は全部入れかわっている。中にいる人は、そのことに気がつきにくい。
 秋津の母も、執筆前には、これほど動き、自己主張する人間になるとは思ってもいませんでした。かのじょは介護されながらも、もしかしたら「嫉妬」の渦にいちばん巻きこまれているのかもしれません。秋津自身が、人のことを最優先しているように見えて、実は自分のことしか考えていない人間ですが、秋津の母はそれ以上に、自分中心に物事をとらえているのかもしれない。秋津視点のパートを書いているときがいちばん楽しかったです。いいんだ、人は愚かでいいんだと、秋津に教わったような気が、いまはしています。

 (さくらぎ・しの 作家)


桜木紫乃 『無垢の領域』 978-4-10-327723-1

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