書評

2013年5月号掲載

先にSFが書くべきだった

――リチャード・パワーズ『幸福の遺伝子』

円城塔

対象書籍名:『幸福の遺伝子』
対象著者:リチャード・パワーズ著/木原善彦訳
対象書籍ISBN:978-4-10-505874-6

 この小説を読み終えたわたしは今、とても強い無力感に襲われている。この小説は、ある種SF的側面をもった話と読まれてしまうだろうし、過去のSF作品とも比較されるだろうと感じるからだ。たとえばブルース・スターリングが八〇年代に書いた作品群と。しかしパワーズが描いているのは単に現在進行形で展開されている科学の現場の光景である。こういう話はSFによくあるものだという人がいるならば――こうした話が何故SFでは書かれてこなかったのかをわたしは問いたい。つまり、SFという単語を用いることで思考を閉じ込め目をつむってしまうことを阻止したい。しかしそれは多分無理だと思う。パワーズがここまで書いても、この小説がSFの一支流にすぎないと読まれてしまうなら。
 お話は一見単純である。書けなくなった作家が創作のクラスを持つ。そこでアルジェリアからの移民の学生に会う。彼女は常に幸福そうに見え、周囲に絶え間なく幸せをふりまき続ける。それは常識を超えた救いの力だ。しかしその力が遺伝子の偶然によりもたらされたものだとしたら。あるいは幸せを感じ続けるという病気であるとしたら。心理学者、分子生物学者、テレビ番組の制作者、創作クラスの仲間たちは拡大していく騒ぎに巻き込まれていく。
 お話は実は入り組んでいる。現代のアメリカ小説は、「自分のルーツ」について書かれた「長大な」小説に特化されつつある気配がするわけだが、ここで「ルーツ」は人目を引く突飛なものであればあるほど価値が上がる。これはアメリカ人にとっては何とも奇妙なひねりであって、アメリカ人として書こうとすると非アメリカ人を書かねばならず、しかし自分はアメリカ人以外の何者でもない。このひねりに当然意識的なパワーズが、作中で幸せをふりまく人物としてアルジェリア人を選択していることに注目しよう。パワーズは、ごくごく正気の人間として、勝手に他人の内面を描くわけにはいかない。キャラクターの独白を書けないという意味ではなく、コミュニティの向こうの出来事を、自分の属するコミュニティの眼鏡を通して書くことはできない。だから「本当の話」は決して書かれえず、「本当のように見える話」が書かれることになるのだが、パワーズがこの錯綜するお話で追いかけている一本の糸は、「本当のように見える話」が「本当の話」であり得るのかという問いであり、同時に、「本当の話」がどうしても「本当のように見える話」になってしまうことへの戸惑いである。この小説に登場する元作家は、かつて他人のことを好き勝手に書き、それゆえに今は書くことができなくなった人物であり、ひいては自分自身のことさえも書くことができなくなっている。
 本書には、「人間は自分で思っているよりも、外部の要因によって決定されている」という考え方が、繰り返し姿を変えて登場する。SF的な荒唐無稽と読まれてしまいそうな主張なのだが、この設定は、人間の思考は遺伝子で完全に決定されているというような杜撰な主張とは異なり、現代の神経科学や心理学、分子生物学、経済学が今も着々と明らかにしつつある事実をなぞる形で使われており、逸脱はほとんどみられない。
 幸せはどこまで遺伝的に決定されるのかという問いを、人間はどこまで書かれうるのかという問いと並べてみよう。そうしてこう夢想してみる。今わたしが感じているこの意識がただの化学反応の集まりだとして(それは真実でさえある)、わたしはその化学反応に書かれているのか。あるいは遺伝子によって。それとも文字に。人間はどこまで他人に書かれうるものであり、人間はどこまで誰にでも書かれうるものなのだろうか。
 こうして並べてみるだけでこの小説は、「わたしであるということ」と「小説であるということ」、さらに「わたしという小説であるということ」についてのものだということになる。しかもこれはお話に幾重にも織り込まれた一本の筋にすぎないのである。

 (えんじょう・とう 作家)

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