書評

2013年3月号掲載

この『米朝快談』は傑作です。

――嶽本野ばら『米朝快談』

松尾貴史

対象書籍名:『米朝快談』
対象著者:嶽本野ばら
対象書籍ISBN:978-4-10-466004-9

 この『米朝(べいちょう)快談』は傑作です。表題の四文字は、もちろん「アメリカと北朝鮮の愉快なエピソード」という意味ではありません。一瞬ずらした感覚を楽しませる地口なのだとは思いますが。「米朝」とは、もちろん上方落語の巨匠であり、落語家初の文化勲章受章者であり、落語界で現存する唯一の人間国宝であり、「上方落語中興の祖」(©故・立川談志)の、三代目桂米朝師匠のことです。
 私ごとで恐縮ですが、私が曲がりなりにも演芸の世界にいることができるのは、桂米朝師匠のお陰であると宣言しても差し支えないと思います。デビュー当時に事務所から強制的に放り込まれた登竜門番組の審査員が米朝師匠で、出番が終わった私を追って声をかけ、スタジオの隅でネタの構成など、優しく助言をくださったのです。物理的には難しいにしろ、「この方についていく」と決めたことは言うまでもありません。
 思えば、私が初めて演芸場に行ったのは、小学生の頃、道頓堀の角座へ父が連れて行ってくれた時でした。ドタバタとしたドツキ漫才や、派手な音曲漫才トリオが客席を沸かせる、と言うよりも荒らしているようにすら思える環境で悠々と登場した米朝師匠は、本書にも紹介されている「持参金」という、大人の事情満載の演目を小学生の私にもわかるように(もちろん私のためにではありませんが)語っておられたのです。ドタバタや音曲に全く遜色なく、たった一人、上半身だけで魅了するかっこええ落語家に、「大人」の理想像を見た記憶は昨日のことのように鮮やかです。
 その米朝師匠の演目にまつわるエッセイだというのですから見過ごせません。そして参りました。およそ、落語に関する読み物に触れてきた中で、これほど「ああなるほど」と膝を打ち、興奮したのは、それこそ著者が度々引用している『落語と私』(桂米朝・著)を読んで以来のことです。
 とは言え、これは落語の解説書でも評論集でもありません。解説も評論もしていますが。嶽本野ばらという小説家が偏愛的に記したエッセイであり、彼の趣味と嗜好と事情が筒いっぱいに繰り広げられています。このタイトルがついていなければ、私が読まなかった可能性は高いでしょう。
 ところが、読み始めた途端、私自身落語とは相当近いところでべったりと生息している気持ちではいたのですが、これほどまでに冷静に、しかし強い愛情と思い入れで落語に関して語ってくれている本を知りません。いや、実は著者が絶妙にとっている落語との距離が、ここまでの洞察を生んだのかもしれません。
 落語とはどういうもので、こうあるべきだ、こう楽しむのが良い、こう演じることが正しいなどと書かれている「半可通養成本」のようなものは巷に溢れていますが、どうもそれらの著者ら自身が今の時代に生きていないような感覚で記されているように感じることがほとんどです。本書の著者は、熱烈なAKB48のファンであり、ロリータ趣味のおたく的要素も強い、パンクミュージシャンでありアーティストです。関西出身で私と同じ大学に通っていたということもあり勝手に親近感を持って読み始めたのですが、私も若かりし頃に足を運んだ「ベアーズ」という大阪のライブハウスなど、親しみのある地名、芸人、番組、出来事の話に「あったあった」と天井を仰ぎ、また現在の社会現象や風俗、流行についても「わかるわかる」と大いに頷きながら、気がつけば落語の構造を理解してしまっていたのです。ありがとう。
 文字通り廃(すた)れかけていたものを米朝師匠が復活させた上方落語の演目をまるで口演を直に聴いているかのように感じさせる筆致で、すこぶるわかりやすく、そしてそれらがいかによくできており、貴重なものであるかということがわかるようにも述べられています。著者の日常や様々なエピソードと落語のおかしみの構造がまるでダンスをするように絡み合い、見事にリンクし、彼がそんなことを意図したのかどうかはわかりませんが、「どうだ、落語は凄いものだろう、古めかしく見えて実はこれほどまでに現代に生きているのだよ」と言ってくれているようにすら思えるのです。
 突飛なことが満載なのに、なぜか痒い所に手が届く。不可思議な落語本に出会ってしまいました。

 (まつお・たかし 放送タレント)

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