対談・鼎談

2013年1月号掲載

『川瀬敏郎 一日一花』刊行記念対談

スープに近い花

辰巳芳子 × 川瀬敏郎

スープとは何か/だれかのために/美意識を磨くために

対象書籍名:『川瀬敏郎 一日一花』
対象著者:川瀬敏郎
対象書籍ISBN:978-4-10-452802-8

辰巳 きょうはお忙しい中を、こんな鎌倉のはずれまでようこそお越しくださいまして、川瀬先生、本当にありがとう。

川瀬 こういう暖炉があるお住まいっていいですねえ。火があるというのは人間を穏やかにする。薪は全部こちらのお庭から……?

辰巳 そう。枝打ちしますからね。薪買ってなんて、やってられません(笑)。でもね、先生、人間はなぜ火を見ているのって飽きないんでしょうね。

川瀬 草花や食べものも含めて、すべて飽きないものは本質的なものですよね。お米をその筆頭に……。

辰巳 このたびは川瀬先生の最新作『一日一花』を送ってくださってありがとうございました。ほんとに驚きました。驚いたのは川瀬敏郎という方のお花の世界が、まるで別人のように変わったなあと思って。素晴らしいお仕事です。さぞかし大変でございましたでしょうねえ。

川瀬 私自身、こんな花を生ける人間になるとは、若いときには思ってもみませんで……。仕事というのは他者との関わりですから、どんどん付け足されて行くんですね、いろんな味が。それに違和感を覚えながらも、昔はそれが喜びでもありました。でも……。

辰巳 いまはご自分が自然そのものになろうとしておられるから余計なものは一切いらないんですよ。『一日一花』の前書きに、川瀬先生はこう書いていらっしゃる。

――草木になかば埋もれるような暮しのなかから生れたなげいれは、素の花です。人為を加えず、草木花のおのずからなる姿をめでる花。(中略)素とは、引くことも足すこともできないものです。一年間三六六日つづけた「一日一花」で、私がこころがけたのは、素の花といういわばぎりぎりの姿に、自分のいける花が、人為を尽くしつつ、それでも近づくことができるだろうか、ということでした。

――今度のこの『一日一花』で、川瀬敏郎は単なる華道家の域を超えて、限りなく“素の人間”に近づいたと私は思います。そのことに驚き、感動したのでございます。

 

img_201301_15_3.jpg
「この1年、生者死者をとわず、すべての人への献花のつもりでいけてきました」。
当代随一の花人が、震災後、毎日花をいけつづけ、多くの人々の感動を呼んだブログが美しい1冊に。
366日分の花と言葉を収めた圧巻のカラー400ページ。山野草425種の索引・解説付き。 

スープとは何か

川瀬 この『一日一花』は、辰巳先生のお仕事にたとえると、お料理というよりスープに近い花と自分では思っています。

辰巳 うん、そうかもしれないね。

川瀬 エッセンスだけを自然の中からすくい上げる、とでもいいますか……。

辰巳 それがスープです。スープというのは食材が持っている一番いいところを、静かーにもらって集めてしまうもの。特に煎じて作るものはね。すべての食べものの中で、最も洗練された、人間でないとやらない、人間でないとやれない仕事かもしれない。人間以外の生物は手に入れた食材のいいところも悪いところも一緒に食べてしまうわけだから。

川瀬 辰巳先生の“いのちのスープ”をお手本にして、うちでけんちん汁に挑戦して改めて思い知らされたのですが、もう、先生のは世にいうけんちん汁じゃないんですね。雑味がないというか、俗なものがすべて昇華されて、ただ清浄なるものが喉を滑って行く。

辰巳 お寺さんがお作りになるけんちん汁は、私にいわせると、いただきにくいの。野菜のアクが全部出ちゃってるから。それでイタリアのスープ名人に習って、ミネストローネのテクニックで私流に作り直したのよ。

川瀬 けんちん汁の大本(おおもと)は中国で、それが日本の禅寺の精進料理になって、さらにそれが辰巳流のヨーロッパの知恵を活用したグローバルなお料理になったわけですね。

辰巳 具体的にいうとね、玉葱が半分くらい柔らかくならないと、人参やセロリを入れない。完全に玉葱の嫌味を蒸らし炒めで消しおさめて、それから次の野菜を入れて行く。じゃがいもが最後だけど、それまでに人参もセロリも七分通り柔らかくなってる。そういう注意深さで作って行くから、仕上がった味が清らかに透き通っているのね。私の母は相当な国粋主義者だったけど、私のけんちん汁を一度食べてからは、「これからうちのけんちん汁はこれに変えましょう」って(笑)。

川瀬 花でも何種類もの花を組み合わせるときって、同じような感覚かもしれません。いろいろ入れて行くうちに、本体の味は消えてしまう。だから、侘び茶の花は一種類ですよね、基本的に。しかし、人間は混ぜる、組み合わせるという能力も持っているわけで、それを失くすとつまらない。

辰巳 私ね、人間と人間の関係にも同じことがいえると思うのよ。それぞれに違う「個」が大事だけれど、お互いに理解のされかたによって、個を超えたかけがえのない社会ができてくると思いますね。

だれかのために

川瀬 本の「あとがき」にも書きましたが、この『一日一花』は東日本大震災がきっかけでした。被災地の遅い春の大地に草が萌え、花が咲き、その花をながめる人々の無心の笑顔をテレビのニュースで見たとき、むしょうに花が生けたくなって『一日一花』が始まったのです。生者死者にかかわらず、毎日だれかのために、この国の「たましいの記憶」である草木花を奉り、届けたいという思いで。

辰巳 お花でもお料理でも、自分のためにというのは一番難しいと思う。だれかのためにとなると手は自然に動くのよ。

川瀬 私はこの本の中で、「これは辰巳先生のために……」と思いながら生けた花がいくつかあるんですよ。

辰巳 あらあら、それはたいへん。

川瀬 だれかのために、ということがなかったら、花は一本たりとも動きません。もちろんプロだからそれなりの形だけはできますが、形を超えた向こうにあるものを表現することはできません。

辰巳 そうおっしゃるところがね、お若い頃と現在(いま)の川瀬先生との違いですよ。むかしの先生のお花はひとえにね、なんていうか、ありったけ、盛りだくさん、という表現でしたからね。

川瀬 いまの自分から見たら、まるで別の人間がやったように思います(笑)。ところで辰巳先生ご自身も若い頃からお花を?

辰巳 女学校時代にお茶とお花をね、少々。お花は岡田広山先生でした。

川瀬 ああ、そうでした、広山流ですよね、聖心は。

辰巳 とにかく毎日、お花なしに暮らすということは考えられないわね。私は自分の食事ではそんなに自分の味覚を甘やかさないの。突然ヨーロッパ人みたいになって毎日同じものでも平気。でも、そういうときでも毎日必ず花は生けるんです。庭から何かしら見つけてきて。花がなければコップに草一本でも。

川瀬 そういう辰巳先生から、この『一日一花』をおほめいただけたとは、私としてはこんなにうれしいことはありません。

辰巳 この本は外国で売れるんじゃないかな。

川瀬 私自身がどちらかというと外国人みたいなところがありますので。でも、その私にいわせれば、辰巳芳子という方も日本人じゃないなと思うところがありますね(笑)。

辰巳 そうなの。だから気をつけてる(笑)。

川瀬 私は二十代でパリへ行って、そのまま永住しようかと思ったくらいですから、いまでも日本というものを見るときに、どこか違う視点がある気がするんです。そうじゃなかったらナントカ流のいけばな屋で終わっていたろうと思います。

辰巳 私、自分の中の何が日本的じゃないのか、よくわからないけど、日本の社会に通用するように生きている自分には気付いているの。

川瀬 私の場合は“絶対的個”というものが欲しい人間だったからヨーロッパへ行ったんだと思いますね。これはいまもそうです。

美意識を磨くために

辰巳 ところで川瀬先生がお花というものを教えるときに、特に心がけていることが何かありますか?

川瀬 最近は教えるときに、縦糸的なことはあんまりいわないようにしているんです。つまり日本の花はこうです、というようなことをいってしまうと、皆さん何かわかった気になって、花が形式的になってしまう。それよりも日々何でもないこととして花を生け続けるほうが凄いことですので……。

辰巳 ほんとにそう。そのことにみんな気がつかなきゃいけないね。

川瀬 ヨーロッパなんかの暮らしの豊かさというのはそれでしょうね。日々の中にこそハレがあるというか、何でもない普段の暮らしを大切にする。日本人はどうもその逆で、ハレの日だけが特別で日々はぞんざいですから。

辰巳 おっしゃる通りです。そういうことを改めて考えるためにも、この非常に洗練された『一日一花』という御本は貴重ですね。美はどのようにして追求するものか、この御本から少しずつ見えてくるんじゃないかしら。喜怒哀楽を心の底まで落とさず、その手前で止める――これが日本人にはなかなかできないのよね、武士(さむらい)としての精神的訓練がなくなった現代では。そういう点からいっても、情に溺れずに美の真髄を探り続けたこの『一日一花』は、極めて珍しい知的なお花の本だと思います。

川瀬 情感に溺れた花は饒舌になってしまうんですね。私自身はそういう饒舌な部分は極力切り捨てたいと思う人間なんです。

辰巳 これは自分の美意識を磨くためにも、是非一冊、座右に置いて役立つ本ですね。素晴らしい御本を本当にありがとう。

 [構成・佐藤隆介]

 (たつみ・よしこ  /・ 料理家/かわせ・としろう 花人) /

最新の対談・鼎談

ページの先頭へ